イスラム国と避難民(日本の貢献のありかた)

アメリカ大統領はゲリラ集団を弱体化し、殲滅させるために、国連を使ってアラブを含む各国に国際協調を呼びかけ、仲間を募って、今までイラク国内に限定していた空爆をシリアにまで伸ばした。 続きを読む

日本の産業革命と戦争

明治5(1872)年に、官営工場としてフランスから最新鋭の機械を入れて建設された、富岡製糸場が世界遺産に登録され、話題になっています。日本の指導者の決断で、この案件がその後生糸の生産、輸出による外貨獲得などに貢献しています。 続きを読む

集団的自衛権

集団的自衛権について、昨今、TVや新聞で連日のごとく報道されています。こうした議論を国民的レベルで、やること自体は大いに結構だと思いますが、戦前2.26事件のさなかに生まれ、その後第二次大戦、終戦、朝鮮動乱、ベトナム戦争、中東戦争、イラン・イラク戦争、旧ユーゴスラビアの内戦等を見聞きしたのではなく、実体験した自分としては、主権国家間の戦い、内戦、争乱、ゲリラ、代理戦争等、いろいろな形があり、いつどんな形で争いが起きるかは、そう簡単に予測がつくものではありません。 続きを読む

第一次世界大戦から100年(誰のために戦争をするのか?)

今年で第一次世界大戦が始まって100年目。足かけ5年の戦いでしたが、軍事関係者の死者が900万人、非戦闘員の死者が1,000万人と言われています。主戦場は欧州全土ですが、当時の武器のレベルからしても、如何に大量の死者が出たか、この数字だけでもなぜそんなに戦わなければならなかったのか。「サラエボ事件」の歴史的な意味合いについて、意見を交わす国際会議が、今年、事件の発端となった、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで開催されるという話です。

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戦争と平和(7)(戦後)

小学校6年になる春に、赤坂に引っ越し、桧町小学校に入学しました。現在の赤坂小学校ですが、戦前戦中は乃木小学校です。すぐそばに乃木邸があります。

戦後2年しか経っていないので、まだまだ元高級住宅街は焼け野原のままでした。そこで私たちは、焼けただれた金網をバックネットにして野球をやり、他人の土地ですが、勝手に耕して、カボチャやサツマイモなどの食料を作っていました。 続きを読む

戦争と平和(6)(終戦)

とても暑い夏の日、ラジオからニュースが流れていました。「敵は広島に新型の爆弾を投下した模様。政府は物理学者などを現地に派遣調査を開始した」という短いニュースを今でも鮮明に覚えています。それから長崎にも原爆が投下された。そして8月15日、その日もかんかん照りの雲一つ無い真夏日でした。 続きを読む

戦争と平和(5)(国民学校生活)

鶴川村では、学校は疎開していた寺から3km 近くあり、当時集団登校でしたが、足腰はおかげで大変丈夫になりました。特に冬の雪の降った日は大変で、履物はわら草履なので、すぐにぬれるので、腰にわらじを差して、裸足で学校まで駆け足で行きます(ゆっくり歩くと足が冷たいので)。学校に着く前に井戸があるので、その暖かい水で足を洗い、草履を履いて教室に入ります。教室には、前の方に大きな四角い火鉢があって、炭火が焚かれています。あまり暖かかった記憶はありません。 続きを読む

戦争と平和(4)(都会っ子の暮らし)

今では田舎ではなくなっていますが、当時鶴川は充分立派な田舎で、都会っ子が美しい里山生活が出来たことは、自分にとっては貴重な経験だったと思っています。しかも、戦時中ということで、色々な事件や、日常生活の中で子供仲間のこと、学校生活、日々の里山生活、野山での遊び、村祭り、だんべい言葉等を思い出せる限り書いてみます。 続きを読む

戦争と平和(3)(学童疎開の実態・小学生の自己責任)

私どもは、昭和16(1941)年12月に大東亜戦争が始まるとすぐに、親が早々と縁故疎開することを決めたので、私が「千駄ヶ谷第一国民学校」に入学し、一年間いた東京の学校に別れを告げることになりました。 続きを読む