戦争と平和(5)(国民学校生活)

鶴川村では、学校は疎開していた寺から3km 近くあり、当時集団登校でしたが、足腰はおかげで大変丈夫になりました。特に冬の雪の降った日は大変で、履物はわら草履なので、すぐにぬれるので、腰にわらじを差して、裸足で学校まで駆け足で行きます(ゆっくり歩くと足が冷たいので)。学校に着く前に井戸があるので、その暖かい水で足を洗い、草履を履いて教室に入ります。教室には、前の方に大きな四角い火鉢があって、炭火が焚かれています。あまり暖かかった記憶はありません。

学校での授業の記憶もあまりなく、ほとんど勤労奉仕と称して、畑や田の草取り、メイチュウ蛾(米の害虫)探しや、学校の防空壕の穴掘りなどです。この穴掘りの時に、都会育ちの子は鍬の使い方もおぼつかないので、田舎のお兄さん(上級生)が私から鍬を取り上げて、黙って代わってくれました。この優しいお兄さんを、今でも時々思い出します。

戦争がだんだん激しくなると、松根油を取るために松の根っこを掘り起こしたり、柿の葉にビタミンCがあるというので、校庭に大きなテントのようなものを張って、そこに柿の葉を放り込んで蒸していた事を記憶しています。

憲兵上がりの先生がいて、私は殴られませんでしたが、仲間が何かの拍子に、びんたを食らって、吹っ飛んだのを見たことがあります。(最近はこんな事は大事件になるでしょうが)朝の朝礼で、仲間がぞろぞろ前に出たので、私も出なくてはならないと立ち上がったら、お前は出なくて良いと言われ、何があったのか分からないうちに、整列した仲間が先生からびんたを食らっていました。後から聞いたら、昨日スイカ泥棒をしたのがばれたのだそうです。当時はスイカ泥棒くらいでは、殴られておしまいでした。

戦争がだんだん厳しくなってくると、こんな小さな小学生にも身の危険が迫った事もありました。ある日、真っ昼間に国道で遊んでいると、急に低空で戦闘機が爆音を響かせて通り過ぎたので、身をかがめて見たら日の丸のついた戦闘機だったので、ガキ仲間と一緒に「わーい! がんばれー!」などとわめくまもなく、次の戦闘機が見えたとたんに機銃掃射をされ、無我夢中で近くの茶畑に潜り込んで、しばらく様子を見ていると、それはグラマンF6Fというアメリカの戦闘機でした。要するに、敵の戦闘機に日本が追いかけられていたという構図のようでした。

しばらくこの追いかけっこが続いていたので、茂みを選びながら寺に帰ったら、あんたどこで遊んでいたの!と言われ、機銃掃射をされたことを報告すると、あんた兵隊さんじゃないんだから報告などしなくても良いけど、死ななくて良かったねと、その日は一日中この戦闘機の機銃掃射の話で持ちっきりでした。

余談ですが、当時の小国民は、どういう経路で入ってくるのか分かりませんでしたが、敵の戦闘機のグラマンF6Fとか双胴の戦闘機ロッキードP38等と敵の機種の名前を正確に覚えていました。また当然でしたが、B29爆撃機のエンジンの音で機種が見分けられていました。

こんな状況でしたから、B29の空襲もほとんど毎晩で(なぜか空襲は夜が多かったと記憶しています)、太平洋側から富士山を目標に入ってきて、そこからほとんど直角に近い角度で東京方面に飛行していたので、今の町田や相模原、八王子の真上を通るわけです。そこでは焼夷弾や爆弾は落とさずに、全部東京が目標のようでした。編隊で飛んで行くのですが、相模原の戦車隊基地や、厚木の飛行場などから高射砲でぽんぽんと軽い音をさせて、B29めがけて撃つのですが、高さが届かないで破裂しているのがよく見えました。

大きな空襲で東京が焼かれたときには、丁度鶴川村から東京の方を見ると、真っ赤なドームのように見えて、3月と5月の東京大空襲の時にはまさに滅び行く東京という風情でした。見ている本人たちはあまり感傷的な気分など当時はなく、まるで毎日、敵機の空襲を日課のようにして見送っていました。

夏近くなったある日、厚木の飛行場辺りから、まるでロケット花火のように、追跡型の新型の高射砲弾が打ち上げられているのを見たことがあります。後から知ったのですが、追跡型の新型ロケット砲弾で、機体のジュラルミン(アルミの合金)を溶かすような細工がされていたとのことでした。確かに一機だけ、B29がこのロケット砲で当たったとたんに、燃えて墜落したのを目撃しました。

そんな戦争風景ですが、後になって、フランスのマルセル・プルーストの「失われし時を求めて」という小説のなかに、ドイツの攻撃でフランスの町が焼かれて、町全体が真っ赤に染まるのを見て、「滅び行く美しさ」といったような表現があるのを見て、空襲で赤く染まった東京を思い出した事があります。

そんな田舎での感傷的な戦争風景とは裏腹に、東京では多数の女性や子供が火に巻かれて亡くなったことは、救いがたい悲劇でした。