学校の先生について

最近は私企業(民間)から学校社会に入る方も見受けられる。学校を私企業に例えれば、校長(社長)が居て、教頭(部長)が居て、先生(社員)が居る。そして、生徒という素材に教育という付加価値を付けて商品にして、外に送り出してやる会社だ。

会社ならば、社員が仕事をする場合、仲間同士や上司とのコミュニケーションが普通に取られる(会議や報告や相談といった形で)。しかし、学校では一人の先生が教室で一人で仕事(授業)をする。それに対して、他の社員(先生)がアドバイスしたり、一緒にサポートをしたりすることが原則ない。むしろ、先生のプライバシーの問題があるとか言って、他人が授業参観することが嫌がられる(もちろん、最近ではこのようなことをやっている学校の例もあるし、お互いに干渉し、指摘し合ってうまくいっている学校もあるという)。そして、社長や部長は部下(先生)のやっていることが心配ではあるが、素材ができるだけ欠陥商品(落ちこぼれや暴力生徒)にならず、商品として外に売れて(卒業して)くれればよいと思っている。

私企業ならこんな会社はとっくに潰れているが、長年学校という特殊部落に閉じこもって過ごしてきた人たちにそんな理屈はなんだかよく分からないようだ。先生の評価と称していろいろな形で改善にトライされてはいるが、「評価」という言葉でも分かるように、先生の給与を決めたり昇進を決めたりするため、あるいは「評価」というシステムを採用していることで、教育を努力してやっているという形を作っているだけのケースが多い。しかも、人間が人間を評価すること自体がそう簡単ではないし、本来先生は生徒を教えるプロとして学校という会社に就職してきているのだから、「先生はプロ根性を持て」などと言うこと自体がおかしい。

この話の延長線上では、授業はあくまで技術論であって、生徒にいかに授業を理解させるか、という話になっていく。しかし、これはこれで、やる意味は大いにあると思う。すなわち、社長をはじめ部長も社員も一体になって(社員の仕事を一人一人の仕事にしないで、お互いに関係のあるみんなの目的にして、お互いにアドバイスし、指摘し改善するといった方法で)、仕事すなわち毎日の授業を行う。当然他人の授業に参画して意見を述べるというようなことが平気で行われることが重要だろう。こんな私企業では当たり前のことが、学校という世界ではできない、やらない、やりたくない。だから、私企業出身の校長先生の出番なのだろう。もっとも、同じ私企業でも「人事担当を長くやっていました」という校長も居るらしく、結果がどうなのか興味がある。

このような校長をはじめとして、先生同士あるいは親も入れた形での授業形態の変革、先生の意識改革といったものが、今まではともすると先生の能力のアップとか、先生自身に焦点が当たりがちだった。もちろん、実態は先生自体の改革なのだが、むしろ生徒が集中力を切らさないかとか、生徒がどう反応しているのかといった生徒主体の改革が重要で、生徒のできが悪いとか、生徒の能力がないとか、生徒が悪いということを改革ができない理由にしやすいのが学校であろう。従って、生徒に焦点を当てた改革をしていけば、必ずそれぞれのクラスで核ができてくる。これはこれで、授業実務の改善という一義的な意味から次の本質的な問題を解くためにも、プラスになる話であろうかと思う。

次に重要な問題は、単に授業が分かるとか理解するとかではなく、人間としていかに生きるのかとか、人生とは何なのかとか、友人とは、学問とは等々、人格形成に関わるようなインパクトをどう与えられるのか、という問題だ。これは何も学校に限ったことではないが、日頃接している先生からの影響は決して少なくはない。しかし、どう考えても、今の先生にこれを即席的に期待するのは無理というものだろう。