コミュニケーションあれこれ

人間は集団生活をする動物なので、当然のことながら、いろいろな形のコミュニケーションが発生する。言語はもちろん、文化、宗教、気候、風土などの違いにより、その形はさまざまである。

最近はケータイやスマホを手前に掲げ、所構わず誰かとコミュニケーションを取っているか、音楽を聴いたりゲームをしたりしている人が多い。いったいいつからこんなに「二宮金次郎」が増えてしまったのだろうかと考え込んでしまう。

彼らはこのようにして、普段からかなり密度の濃いコミュニケーションを図っているのだろう。ただし、はがきは書いても年に一度、年賀状くらいか。ましてや手紙など書く機会はほとんどないのではないだろうか。

最近はメールでのやりとりが多いとはいえ、会社には書状という形が残っている。メールに添付という形であっても、手紙がなくなったわけではない。まして海外との取引があれば、確実に手紙をしたためることになる。

そこで、手紙を書かせてみると、一番大事な宛名書きからしてまともにできない。敬称が間違っている、役職が書かれていない、相手の会社名を略称で書く等々、問題点を挙げていくと枚挙にいとまがない。

ましてや英文だと、まず日付が間違っている。ワープロソフトが自動的に挿入する日付はたいてい初期設定が米国式になっているためだ。(米国向けならそれでいいのだが…)それから敬称、名前、役職、部署名、会社名と来て、やっと本文を確認するのだが、「こんな細かいこと、学校では習いませんでした」と言う。

自分の知らないことは何でも「学校で習っていない」で済ませてしまう。「近頃の学校は何でも教えなければならないから大変だね」と皮肉を言いながら修正し、「では、できたから封筒に入れて送っておいて」と指示して見ていると、平気でA4やLetterサイズの手紙を四つ折りにしてしまう。

「内容さえ伝われば、形式なんてどうでもいいじゃん」という声が聞こえてきそうだが、実はどこの文化も、挨拶一つからして多分に形から入っているケースが多い。挨拶はコミュニケーションのまさに始まりだから、それぞれの文化で特有の挨拶が形式化される。

日本なら時候の挨拶からだが、アラブの挨拶は「サラマレコン」から。「私はあなたの敵ではない」という意味だとか。でも、近頃は物騒になり、いきなり爆弾で吹っ飛ばされるとか、いきなり拉致されるとか、あまり挨拶が必要ない時代になった。これも一神教同士の究極の挨拶文化なのかもしれない。いや、失礼。アジアのどこかの国にもいきなり拉致という話はある。日本だって、いきなり刃物を辺り構わず振り回して、何の関係もない人々を殺傷するという痛ましい事件が続発しているが、皆根っこは同じなのだろうか。

ともあれ、少なくとも形式が整っていれば、中身が少し薄くても格好が付くとか、相手はある程度受け入れてくれるとかいうメリットがある。例えば、礼儀作法や立ち居振る舞いがすばらしくしっかりしている御仁がいたとしたら、その人の中身が少しくらい薄くても、相手は少なくとも初めは受け入れてくれるはずだ。これが形式というものである。

最近の大学生に聞いてみると、「今はインターネットで世界とつながっている。だから論文形式の試験だって、ネットで検索して情報を拾って適当に切り貼りすれば、たちどころに解答が出来上がってしまう」ということらしい。それはそうかもしれない。ただ、少なくとも何を聞かれているのかくらい、よく読んでから対応して欲しいものだ。

いわく、「あなたの経験をもとにして、あなたにとってお金とは何かを述べよ」と問うと、とくとくと貨幣論などを述べてそれでおしまい。よくてもせいぜい「私にとって、お金は大変大事なものです」という感想を結論に一言付け足す程度。驚くことに、「あなたの経験」に全く触れない学生が三分の一はいる。

要は、他人の言うことをよく聞いていないのだ。アバウトに「ああ、この人はお金のことを聞いているんだな」ということで作業に取りかかってしまう。しかも、かなりの学生が変換ミスをそのままにしている。その間違いがあまりにも面白いので、おとぼけ賞でも差し上げたいくらいだ。一例を挙げる。

「弱者のために事前事業をやりたい」(フィージビリティスタディは大切だが…)

「融資でゴミ拾いをしている」(この不景気に金を貸してくれるなら、喜んでゴミ拾いする人は大勢いると思うが…)

「世界で怒っている地球環境問題」(確かに、環境問題には怒りたいところが多いが…)

「京都議定書が未発行」(印刷屋を急かせばよいのでは?)

「俳ガス規制」(文学的な表現だ!)

残念ながら、こんな文書の扱いでは実社会で全く通用しないことなど、考えもしない学生が多い。しかし、女子学生は違う。総じて優秀だし、積極的で、しかも現実的だ。また、海外からの留学生、特にアジアからの学生も違う。なけなしの金をはたいて日本に来て勉強し、帰国後は自分の一族郎党を食わせなければという使命感で一杯だ。

相手に自分を知ってもらうことは大事だが、まずは相手を知ることがコミュニケーションの原点ではないか。日本人同士が日本語で話していてもこれくらい通じないのだから、ましてや海外で違う風俗習慣の人たちとコミュニケーションを取るとどうなるのだろうか。