戦争と平和(7)(戦後)

小学校6年になる春に、赤坂に引っ越し、桧町小学校に入学しました。現在の赤坂小学校ですが、戦前戦中は乃木小学校です。すぐそばに乃木邸があります。

戦後2年しか経っていないので、まだまだ元高級住宅街は焼け野原のままでした。そこで私たちは、焼けただれた金網をバックネットにして野球をやり、他人の土地ですが、勝手に耕して、カボチャやサツマイモなどの食料を作っていました。

廃品回収業者(当時バタ屋と呼んでいました)のおじさんは、針金で作った鍵状のツールで、居間の跡とおぼしき場所を掘り返して、何かを探していました。先見の明とはこういう事かと感心しましたが、探していたのはダイヤなどの宝石類でした。そのおじさん曰く、兄ちゃんたち、そのうちそのバックネットのさびた金網もみんな持って行かれてしまうよ!との予告でした。

私たちが東京に戻ってわずか3年後の昭和25(1950)年6月に朝鮮動乱が始まり、3年続きました。そのためにおじさんの予告通り、金目のものはすべて焼け跡から消え、「動乱景気」と称して世の中の景気が良くなっていったようです。

焼け跡の土地にもぼつぼつ人が住み始め、戦前の軍人さんなど、地主であった人たちが没落し、新興産業関連の金持ちが、入れ替えに住むようになりました。

当時のエピソードで、私どものお隣が、元々軍人さんの土地で、その土地を、当時の相場が坪あたり700円でしたが、この鉄鋼関連の社長さんは坪1,000円で4千坪ばかりの土地を購入し、そこにプール付きの豪邸を建てていました。後に映画の撮影で、当時売り出し中の裕次郎が来ていたようです。

そこの男の子と私の妹は小学校が同期で、後に私がパリ勤務をしているときに、仕事で来たので、あんた小学校の成績はどうだった?といきなり質問して大笑いになりました。

また歌舞伎俳優の子供も同じ小学校で、国語の時間に朗読させると、抜群にうまいが、算数の時間は苦手だったようです。当時は金持ちや芸能人でも公立の学校に通っていた子が結構いました。

  • 閑話休題

その頃の都会のど真ん中の生活を参考までに書きますと、電気はさすがに来ていましたが、ガスは来ていませんでした。従って、食事の支度は、朝から母親が七輪で火をおこし、それで食事の支度をするという生活です。

しばらくして、「電熱器」と称するニクロム線を渦状に配した道具を湯沸かしなどに使っていました。ガスが入るのはかなり後になってからです。

物置には燃料(薪や炭)屋さんが配達してくれた薪と炭が結構大量にストックされていました。勿論冷蔵庫はありませんので、買い物は毎日です。ゴミ捨ては、敷地に大きな穴を掘って、そこに捨てていましたが、隣の敷地が古い寺の墓地で(ほとんどが江戸時代の墓)、住宅の敷地ではありますが、そこを掘ると古い江戸時代の棺桶などが出てきました。江戸時代は多分墓だったのでしょう。

最近その辺を散歩してみましたが、元墓だったところは全部住宅が建っていました。寺も「土一升、金一升」の世界なのでしょう。地下の仏様は何を感じているのでしょうか?

しばらくして、東京都がゴミ収集を始めますが、初めは「チリンチリン」と言って、人力荷車で、鐘を鳴らし、住宅街を流しながら、近所のおばさんがゴミ(ほとんどが生ゴミのみ)をその荷車を追いかけるように放り込むのです。夫婦共稼ぎの家など当時は無かったのでしょう。

トイレは勿論、下水も破壊され、整備されていませんでしたから、くみ取り式です。東京でも外側の地域では、まだ屎尿が農地の肥料として利用されていたので、農民くみ取りが普通でしたが、化学肥料が使用されるに従って、農民も使わなくなり、都の直営でくみ取りをやらざるを得ず、都心では一樽10円でチケットを買っておいて、くみ取り屋さんに渡す仕組みでした。それがバキュームカーになるのには更に時間がかかりました。

私は今でも発展途上国の都市社会インフラ(上下水、ゴミ処理、エネルギーなど)に関わっていますが、当時の何も設備がない段階から、現在のような近代設備になるまでの経緯を経験しているだけに、途上国で何をどのような順序でやるべきかは、その経験が参考になります。

上記のゴミ集めも屎尿処理も、いずれも進駐軍が入ってきて、彼らから日本政府に命令されて始めたケースが多いのも面白い現象です。

ゴミについては、GHQがニューヨークの清掃局長を10日間日本に呼んでアドバイスをさせました。内容は、商店街の店先が散らかっているので、もっと整理整頓しろとか、ゴミ収集で、皆さんご記憶の方も多いと思いますが、戦前から、高さ1メールくらいで、幅が70センチくらいの箱形で、前がスライド式のゴミ箱が家の前とか道ばたに設置されていました。あれは役所の基準で決められていましたが、生ゴミの汁がこぼれるので非衛生的であるとのお達しで、順次撤去されました。

屎尿処理も最初は米軍の屎尿処理を日本政府がやれと言われて、日本側の金で始め、順次民間の業者にシフトしていった歴史などがあります。

GHQのお達しで、きつかったのが、上野などの地下道にたむろしていた浮浪児たちです。くさくて不衛生だから取り締まれと言われ、警察としては取り締まっても、いたちごっこですし、取り締まる方も彼らを収容する充分なシステムも出来ていないので、あまり意味がありません。元々疎開児童で両親を亡くし浮浪児化したり、空襲で両親を亡くしたりで、彼らも戦争の犠牲者に違いありません。

当時、新橋の今機関車が置いてある近辺では、泥棒市とか闇市などが盛んで、夕方になると、GI(米兵)がずだ袋にチョコレートやたばこ、ガムなどを入れて、小遣い稼ぎに商売をしていました。俗称「How much」といって、日本人がGIに声を掛けて、所望の品の取引をするのですが、あるとき、大人が取引しているところに、近くの料亭などから雇われた子供が、中に入って「All buy!」と言って、袋ごと買われてしまったので、しがないサラリーマンおじさんは、せめてラッキーストライクやキャメルのたばこの一つぐらい分けろと言いがかりを付けていました。実用英語の走りです。

当時は皆生きるのに精一杯で、戦地から復員して帰って来た人や、職が無くて、怪しげな取引で生きていた人など、人生模様色々でした。朝鮮から引き揚げてきた叔父がメリヤスのシャツをどこからか仕入れてきて、闇物資なので、大人が下手に運ぶと没収されるので、中学生の私が、学校の鞄につめて、闇商売の片棒を担いであげたこともありました。

当時印象に残っているのが、NHKの「尋ね人の時間」という番組が毎日あって、人捜しのお手伝いです。「戦時中ハルビンにお住まいで、山形県出身の○○さんが、奥さんの××さんを捜しています」とか色々、戦時中、戦後の混乱期に生き別れ、死に別れ、すれ違いと、まともに生きるのが大変な時代に、それぞれが必至にまじめに明日も分からない貴重な「今」を生きてきたのは事実です。

生活が楽かどうかは別にして、こんな平和な時代だからこそ、これからどうなるか全く分かりませんが、短い人生を思いっきり生きるということを、若い方たちにも考えてほしいです。

最近出来上がった宮崎駿の「風立ちぬ」のおしまいの方で、結核を病んでいる主人公の婚約者が名古屋の駅で、彼とやっと再会出来たときに、一言、なんと言ったか?と若い方に聞いたら、「一生お前を大事にするよ」と言うとの答えでしたので、私が彼女だったら、「あ、そ、ではさようなら」と言って、軽井沢の療養所に帰るよと答えておきました。

残り少ない時間を、どう二人で生きるのかを考えたら、宮崎駿氏も「これしかないでしょう」と言って、全く私の想像と同じ台詞を書いていました。

「一緒に暮らそう!!」これしかないでしょう!

人生短いですから、楽しく且つ厳しくまじめに生きていきたいですね。