戦争と平和(2)(嵐の前の静けさと耐乏生活)

世界恐慌の影響がもろに出ている昭和13(1938)年に、日本は国家総動員法が発令され、経済統制(米の配給)、公定価格(俗に丸公)、言論統制、労働問題など、国民生活に直結する基本問題を規制したのがこの法律です。

私が記憶しているのは、昭和14年に、東京・千駄ヶ谷の自宅に、米屋が「配給でーす」と言って、台所にドスンと米袋を配達してきたのを覚えています。生まれて間もない、この頃からが、食い物との戦いの始まりだったわけです。

それから2年して第二次大戦が始まるのですが、それまでは特に食物が不足したとか、いつもひもじい思いをしたということもなく、「三丁目の夕日」の世界が広がっていたということです。その生活環境をご理解頂くために、千駄ヶ谷の町の様子を描いてみます。

我が家があった所は、多分昔のどこかの藩の下屋敷跡らしく、立派な門があって、その敷地内に数軒の貸家が建っており、大家は近所のたばこ屋さんでした。借り主たちはそれぞれで、我が家は第一生命のサラリーマン、お隣がお役人さん、お向かいさんは満州帰りのお姉さんがいて、製図の墨入れをやっていました。その先には下駄屋さんの店を外に持つ自営業だったと思います。当時は東京のほとんどの方は一軒家を借りても大した家賃ではなかったはずです。その敷地内の真ん中に共同の井戸があって、その水を皆で使っていました。

門の外のお向かいさんは、お大尽らしく、大谷石の塀を巡らしたお屋敷です。外に出ると、小さな路地に、藁筒の納豆を作るじいさんが住んでいたり、路地角には真鍮の板を打ち抜く作業をする典型的な町工場、薬屋のガキ大将、自転車屋の息子、焼き芋屋の親切なおばさん、たばこ屋のお姉さん、少し遠出をすると、明治屋というお菓子屋さんがあって、キャラメルはそこで買っていました。その近くには空き地があって、トンボやチョウチョを追いかけていました。

焼き芋屋のおばさんには、冬になると鼻水を垂らして、それを袖でぬぐうので、袖口がガビガビになってしまい、その上毛糸のズボンがずり落ちそうになっているのを見て、良く引き上げてくれました。今時他人がこんな事などしてくれませんし、またこんな子供もあまり見かけませんね。

普段は夕方母親に手を引かれて、散歩かたがた、銀座線の(当時、地下鉄はこれだけ)「外苑前」まで父親を出迎えて、一緒に帰り、途中、今の国立競技場の横手に「日本青年館」というのがあって(現在あるのは立て替えたもの)、そこのビル脇から入ると、しゃれた喫茶室があって、アイスクリームを食べさせてもらった記憶があります。

週末には、神宮外苑へ散歩に連れて行ってもらい、外苑の絵画館の水飲み場であったり、今はテニスクラブになっている場所に当時は大きな螺旋状の滑り台があって、そこで記念写真を撮ったり、信濃町で調達してきたサンドイッチを親子で公園のベンチで食べたりしていました。

縁日には、千駄ヶ谷駅前をまっすぐに入った所に「鳩の森八幡宮」があって、そこで買ってもらった、飛行機のおもちゃが気に入って、夜中まで遊んでいて叱られたり、昼間母親が物干し台に洗濯物を干しているときに、母親に「隣のとっこちゃんの所に遊びに行ってくる」と言って、よちよち歩きで、隣のお姉さんにあそんでもらった記憶がなぜか今でも残っています。

そんな幸せな毎日を送っていたのに、その時以来母親は不治の病と言われた結核にかかり、あっという間に昭和14年の12月に慶応病院で亡くなってしまいました。亡くなった晩に私があまり激しく泣くので、父親は不思議に思って、病院に電話を掛けたら危篤だという。それで、自宅から慶応病院まで私を抱いて、病院に駆けつけたという話を大分後になって聞かされましたが、その記憶は全くありません。

毎日の生活では、朝鮮で金山を経営していた叔父が、虎やノロの皮を送ってきたり、上海に勤務していた別の叔父から、マカロニやハーシーのチョコレートを送ってきたり、あるときには、私の祖母が明治3年生まれで「やす」と言い、その姉が慶応元年生まれで「たか」と言いますが、その二人に連れられて、上野の動物園に行き、その年寄り同士が迷子になったために、動物園の前にある交番のお世話になったことがあります。警察の方が「年寄りは泣かないんで見つけにくい」と言って、ミカンを一個くれたのを覚えています。

ちなみに「やす」、「たか」という名前は、生まれたときの米の値段が安かったり高かったりしたので、そのまま付けた名前だそうです。いかに食い物が生活に密着していたか良く分かります。

そんな「三丁目の夕日」のような生活の中で、昭和16年の戦争へと時代が移るのですが、どうしても忘れられない話があります。

家の裏に住んでいた、母親思いのケイコちゃんという私と同年代の女の子がいました。父親は海軍の軍人で、既に海外のアッツ島にいると良く聞かされていました。従ってケイコちゃんのお母さんと、まだ乳飲み子の長男との3人暮らしで、質素な暮らしぶりは見れば分かるような家でした。それから戦争が始まり、その後強制的に学童疎開が始まり、ケイコちゃんだけが東北の方に学童疎開、昭和20年5月の空襲で、煙にまかれて、母と男の子が亡くなり、父親はアッツ島で玉砕、残されたケイコちゃんは孤児となってしまいました。

私たちがこの話を聞いたのは、戦争も終わって東京に帰ってきたあと父からで、一体その後、小学生で天涯孤独になり、一体誰が面倒を見て、どうやって生きているのか、長年気になっていました。あるとき情報通の私の姉が、代々木の共産党の事務所の近くの床屋さんで働いているという話を伝えてくれました。

次回、是非この学童疎開の生活というものを、現在の特に若い方に、親子離ればなれで、且つ食い物が足りない、生活は基本的には自己責任でやらなくてはならない小学生の立場と、それを支える親などの話を聞いて下さい。