海外でのリスクマネジメント

海外の現場で、民間企業であれ個人ベースであれ、仕事をする以上、残念ながらアルジェリアのような事故が起きるのはやむを得ないことです。事故が起こってから、マスコミなどが「国家として何が出来るのか」とか、「政府は国民を守るために最大の支援をすべきだ」とか、型どおりのことを報道しています。勿論外務省や現地政府などもそれなりの対策はしてくれるでしょうが、所詮我々は民間として経済原則で現地に赴いているわけで、基本は自己責任がスタートです。

だからといって、何もしないというのでは能がないので、何とか対策を取るわけです。そこで最も重要なことは、やはり「現場がすべて」だということです。特に企業人として、場合によっては政府の出先としても、よくあるのは親元すなわち本社とか、母国政府などのHead Quarterに頼りがちだということは戒めなければならないポイントです。特に何か事件が起こった場合、本社などに連絡するのは当然として、現地で打てる手は出来るだけ素早く対策を取るのが最も重要で、一日遅ければそれだけ問題がこじれることも覚悟しなければなりません。

そうした素早い行動が取れるためには、やはり普段の、現地での人脈作りとか、情報管理とか、その地の文化や風俗、習慣、宗教、政治情勢等々、仕事以前にやるべきことがいっぱいあります。それでも事故は起こります。そうして起こった事故の事後対策もすべて想定した上で、現場の仕事をするという覚悟が現場に求められているというのが私の経験での結論です。

そうした過去の経験をいくつかご紹介しますが、これらは今でも現場の感覚としては充分活用可能であると思っていますが、要は、現場で働く方々のこうした情報や対策を、何も知らない本社側が「ああでも無い、こうでも無い」と大体が否定するのが通例です。これは企業だけでなく、アメリカ政府でさえ同様であるという経験を持っています。詳細はいずれお話しします。これら実例が何かのお役に立てば幸いです。

  • ダム建設現場でのゲリラとの交渉(発破と大砲)

ダム建設では、ダイナマイトの発破をかけることが重要作業の一つです。その時期にスケジュール通り発破をかけると、現地政府側と敵対しているゲリラ政府軍から、いきなり大砲の反撃があった。工事現場としては、そのまま発破を続けると何時までも大砲を撃ち返してくるので、何とか対策を講じなければということで、政府側の大臣に、ゲリラ側に対して「政府側として大砲は撃たない。あれは工事現場のダイナマイトなので、打ち返さないでほしい」というメッセージを出してくれるよう要請した。

しかし、政府側としてはメンツもあり、中々実行してくれないし、工期の問題もあるので、自分たちで何とかしなければ打開が出来ないと判断し、密使をゲリラ側に派遣することを決定した。中身は極めて単純明快なもので、手こぎの小舟で、現地人通訳と日本人を船頭に託し、ダムの上流側に月夜の晩に密使を派遣した。

結果はさすがアジアのゲリラだけあって、物わかりが良いというよりも、思想が健全でほっとした訳です。ゲリラ側の説明は「大砲でないことは分かった。これからは打ち返さない」。それだけでは何時また襲撃されるかもしれないと思うのは当然ですが、それに加えて「我々はいずれ、現政府に取って代わる予定である。従って、あなたがた日本人が作っている現在のダムはいずれ我々のものになるので、しっかり作ってほしい」という激励のメッセージを頂いて、密使は殺されずに無事帰還したわけです。ダム工事は予定工期より少し早く終了し、ボーナスポイントを契約通り頂いたと理解しています。

この話を聞いた後、送電線工事部隊は毎日、現場が工事進捗にあわせて伸びて行くので、何時ゲリラに遭遇するか分からない危険を常に持っていました。そこでダム工事と同様、工事予定表と工事場所を示す地図を毎週、ゲリラ側に渡すことにして、そこを避けてゲリラさんたちに通行してもらうよう依頼した。この工事も無事に終了しましたが、別の事故が発生しました。以下後述。

  • 敵ではなく味方にやられた現地労働者

送電線工事で、後半に入った頃、現場から、夕方現地雇いの数名が事務所に部品を取りに帰ってくるとの連絡が事務所に入った。しかし、暗くなり、夜中になっても帰ってこないので心配して、国道沿いを調べながら探しに行くかどうか検討したが、もう夜中を回っていたので、二次災害を避けるために夜明けを待って捜索をすることにした。

国道沿いには所々に軍の検問所が設けられていて、30分くらい行ったところに検問所があり、そこで事件があったかどうか訪ねたところ、鉄砲の音がしたという。調べると、工事の車が田んぼに突っ込んで、4名の現地労働者が、弾に撃たれて亡くなっていた。かなり至近距離で、しかも後ろから撃たれた様子が、車に残った弾痕からも見て取れた。遺体を車に乗せ事務所まで帰るとともに、現場で至近距離から打たれたはずなので、現場に薬莢が残っているはずと思って、さんざん探して見つけ出し(真新しい薬莢だった)、事務所に持ち帰った。

その後、直ちに骨壺と寺の坊さんをアレンジして、葬式のために、家族(奥さん)たちに、取りあえず、ひとりあたり十万円程度の現金を用意して渡した。しかし、その中に隣のカンボジアから来た労務者がいたので、異国では埋葬許可が下りないという。しかし、家族も子供もいるので、何とか早く葬儀をしてやりたいので、市長に直接掛け合って、家族もいるのでということで特別に許可をもらい、無事全員の葬儀は済ませる手配は完了し、同時に、政府関係者やマネジメントコンサルタントや技術コンサルタントに連絡し、保障問題や今後の対策などの会議を開いた。

世銀の雇われコンサルは、ところで遺体や家族への連絡などはどうしている等というのんきな質問があったので、とっくに処理済みで、金も骨壺も寺の手配も全部済んでいることを報告。さすがに彼らからは感謝の言葉をもらったが、こちらにすれば、どのくらいの保証をさせるかの方が重要関心事であった。

次の日、送電線の工事責任者が「今日は心配だ」と言う。毎朝、常雇いとは別に、その日に必要な労務者を朝事務所の庭で整列させて雇い入れる。死亡事故があった次の日なので、今日は人が集まらないのでは、と心配したわけです。

ところが、蓋を開けてみるといつもより多めの労務者が集まっているので、彼らに「死亡事故があったことは知っているか?」と聞くと、「勿論知っている」と言う。でも、「なぜ来たのか? 怖くはないのか?」と聞くと、「怖くないというより、奥さんに『この会社は面倒見が良い。死んでもちゃんと葬式は出してくれるし、保証もしてくれる。だからしっかり働きに行け』と、ケツを叩かれて来た」と言う。この話を聞いて、人の命の値段、貧しさ等、いろいろと考えさせられる出来事でした。

そのあと、政府には話をせずに、普段から付き合いのあるUSAID(米国国際開発庁)の知り合いに拾った薬莢を渡して、この薬莢がどこ製で、どこ経由の弾なのかを調べてもらった。数日後に結論を持って事務所で報告を頂いた結果は、「村野さん、どうやらこれは、味方にやられたようです」との結論であった。弾は米国製で、当然軍事援助物資でした。

あくまでこれは推測ですが、政府軍の検問所で、我々の雇いの労働者に検問所の兵隊がたばこか何かを要求し、それを拒否したかなにかで後ろから遊び半分に撃たれたのではないか、というのがUSAIDの方との話です。多分、日本人が一人でも乗っていたら、何もなかったかもしれないという話です。

この送電線が完成後、首都圏でも使い切れない電力は、もったいないので隣のタイの電力会社EGATに売電するため、メコン川を渡す送電線を日本の無償援助で追加し、この国際送電線がその後社会主義国化したラオスの国庫収入の70%までカバーしたこともあり、やはり当時のゲリラ側の判断はまことに正しかったという結果になりました。

だいぶ後になっての話ですが、名古屋の有名な農業コンサルタントのK社長(鬼籍に入られております)とメコン近辺でのゲリラについて、その対策を検討していたときに、所詮あの辺のゲリラは政府に不満を持ち、また自分の生活が安定しないのを不満に思っているというのがほとんどなので、農業開発というプロジェクトの名目の下に、彼らゲリラに土地を与え、嫁さんを世話し、子供を産ませて、家庭を持たせたら、それでゲリラ騒動は自然解消したという実績があります。地域によって、また、文化や宗教等によって、ゲリラと一言で片付けられない複雑な背景を理解する必要がありそうです。