お客の社長を飛行機に乗せられなかった駐在員

昭和の大経営者の一人である、八幡製鐵(現・新日鐵住金)の稲山嘉寛社長(当時)にまつわる、若者教育のエピソードをご紹介する。

昭和30年代の後半、まだ海外渡航は自由ではなく、海外に来るお客さんといえば、皆一流会社の社長さんが多かった。八幡製鐵の稲山社長一行が欧州旅行でまずはパリにご到着。商社各社がご招待やらご報告やらで過ごし、パリから次のベルギーに移るときに、我々の車で飛行場までお送りすることになった。一行のメンバーは先に飛行場に行き、社長はゆっくりでも間に合いますからと、後から出発することになった。

私は先にオルリーの飛行場に行き、飛行場の出発便のチェックをして、真っ青になった。普段、ベルギー行はオルリーではなく、北にあるブルジェの飛行場(「翼よ、あれがパリの灯だ」で有名な、リンドバーグが降りた飛行場)であるというのはよく承知していたのに、お偉いさんのアテンドということですっかり慌ててしまったのだ。

気がついたときにはもう連絡が取れず、後から先輩が運転してオルリーの飛行場に来た。慌ててUターンさせ、ブルジェに行ったが結局間に合わなかった。飛行機をだいぶ待たせたが、待ちきれずにベルギーに発った後だった。やむを得ず、社長一行を北駅から汽車に乗せて、鉄道でベルギーに行ってもらった。

一行が去った後は、「これで俺たちもクビだな!」と観念した。数日がたった後、イタリアから絵はがきを頂き、「パリでのアテンドありがとう。また、君たちのおかげで、ベルギーから後の欧州旅行は飛行機ではなく、全部汽車に切り替え楽しい旅行を続けている」とのことであった。それでも我々は安心できず、帰ったら「おまえのところの駐在員にひどい目に遭わされた!」などと散々悪口を言われるのではないか、と勝手に想像していた。

その後しばらくして、稲山社長の秘書の方が再度出張してこられ、うちの会社に帰国報告をした際、「お宅の駐在員には大変お世話になった。おかげで欧州の汽車旅行も楽しむことができた」と言われた話を聞かせてもらった。

この話を聞き、「これでクビはつながった」と我々サラリーマンのいやしい根性丸出しの自己反省と共に、昭和の偉大な経営者が若者を育てるために、この大失態を上記のような形で扱われたことは、何度思い出してもとても普通の人にはできないことと感じた。偉大な経営者と、このような経験を持たせて頂いたことの幸せを未だに感じている。