戦争と平和(3)(学童疎開の実態・小学生の自己責任)

私どもは、昭和16(1941)年12月に大東亜戦争が始まるとすぐに、親が早々と縁故疎開することを決めたので、私が「千駄ヶ谷第一国民学校」に入学し、一年間いた東京の学校に別れを告げることになりました。

たった一年でしたが、入学したときの桜の花、遠足で「おやつなどは持ってきてはいけません」と言っても、長谷川君という子はリンゴを1個持ってきて、みんながうらやましそうな目で見ていたり、三宅君はお母さんから「一日も休んではなりませぬ」と言われて、風邪を引いても学校に出てきて皆勤賞をもらい、「ハニホヘトイロハ(当時はドレミではありません)」を大きな縦の電気式パネルを作ってくれた音楽の林先生が徴兵され、学校から出征していったこと、当時高等小学校という、6年生終了後、2年間の学校教育システムがあり、そこの生徒が、満州開拓団として、満州に出かける式典が奉安殿(天皇、皇后の写真と教育勅語を置いておく場所=当時各国民学校に設置されていた)の前で行われ、紀元節には紅白のおまんじゅうが生徒に配られ、家に大事に持ち帰り、仏壇に供えたこと、図画工作の時間には、チャーチルとルーズベルトがそれぞれの国旗のパンツをはいている塗り絵が配られ、それに色を塗り、「鬼畜米英」というタイトルがついていたことなどを記憶しています。

秋には、明治神宮競技場(今の国立競技場)を借りて運動会をやっていましたが、そのわずか一年後に、同じ場所で、文系の大学生を徴兵し、あの有名な学徒動員の出陣式を文部省主催で東条英機が出席してやったことは、日本を悲劇に追い込む足音だったのでしょう。

1年の3学期には学芸会があり、さすがは東京の学校で、場所は青年会館で桃太郎の演劇をやっていました。また、学校が原宿通りに面していて、天皇陛下が原宿の皇室専用の駅からどこかに出かけるときには、歩道に正座して、お辞儀をしたまま、天皇陛下の車が通りすぎるまで頭を下げていなくてはならないのですが、一目天皇陛下とはどんな顔をしているのか見たくて、ちらちらと上目遣いで見ていたことなど、たった一年間での思い出も多く残っています。

学校最後の日に、担任の女の先生(あごがしゃくれていたので「花王石鹸」とあだ名を付けていました)から工作用のカラーテープを餞別にもらい、疎開しても元気にしているのよ!と優しく、別れの言葉をかけてくれたのを心に刻んで、けなげな一年生の小国民は、都下南多摩郡鶴川村へと疎開していきました。

この田舎生活については別途書きますが、ここで学童疎開について少し検証してみたいと思います。

戦争が始まってから、2年もすると相当戦局は不利になり、国家としては、疎開は負けに繋がると考えていたようです。従って、個人ベースの田舎への疎開は奨励されていましたが、強制的に学童を疎開させなければならなくなり、昭和19年6月に「学童疎開促進要綱」と「帝都学童集団疎開実施要領」が閣議決定され、東京はじめ12都市の小学生(当時は国民学校)3年から6年まで(昭和20年4月からは1年生から)の児童を地方へ疎開させました。目的は都市の防空体制を強化するため、足手まといをなくすこと。将来の兵力を温存するためで、半強制的に学童疎開は行われたわけです。

その中身は、基本は縁故疎開を奨励、どこにも縁故のない人は、学校単位で集団疎開をする、2年生以下や健康上の理由や金がない人は残留組というような仕分けです。

全国での疎開児童は100万人弱、そのうち東京からの疎開児童が全部で50万人と言われていますので、いかに東京の児童が大変だったかが分かります。

金銭的には、学童一人あたりの分担金は10円と決められていましたが、実際には、協力金とかの名義でそれ以上払わされていたようです。当時の学校の先生の初任給が50円でしたので、一般の勤め人などでも結構な支出だったはずです。

食糧は農商省(今の農水省)が責任を持って調達・配給する事になっていましたが、戦局が厳しくなるにつれ、量も質も落ち、基本的に疎開児童の食事状況はどこでも悲惨な状態でした。

疎開児童は、いつも腹を減らしていたので、畑のものを盗んで食ったりしていたので、近所のお百姓さんからは、にらまれていたようです。また、栄養失調の子も多く、下痢などをすれば飯は食べさせてもらえないので、なおさら腹は減るし、食べない子の分は他人が頂くという仕組みです。

では、その子供たちの面倒を誰が見るのかといえば、東京の学校の先生が引率して、その子たちの面倒を見、且つ現地の学校での教育にも従事し、そのうえ学童たちには、現地での勤労奉仕も義務づけられていましたので、畑の草取りや、田の草取り等の労働もさせられていました。

疎開先から自分の母親などに手紙を書くことは許されていたので、今でも当時の状況を、疎開先から母親に当てた手紙や絵日記などが戦後毎日新聞などから出版され、貴重な資料になっています。但し、その手紙の内容も、腹が減ったとか、帰りたいとか、寂しいとかの文言は禁止で、検閲の結果、書き直しをさせられたようです。

いずれにしても、幼い小学生が自己責任で生きて行かねばならず、疎開先でのいじめ、空腹、蚤や虱に食われながら、幼い子がけなげに生きてきたという事実は認識しておくべきでしょう。

集団疎開での一番の悲劇は、有名な話ですのでご存じかと思いますが、沖縄から九州へ集団疎開で「対馬丸」に乗った船がアメリカの潜水艦に撃沈され、775名の学童が犠牲になり、昭和20年の3月の東京大空襲時に、疎開先から卒業・進学のために帰京していた学童が多数犠牲になったりしました。

疎開中に親が戦死をしたり、空襲で焼け死んだり、色々な悲劇が繰り返される中、前に書きましたように、私の隣の家にいた、ケイコちゃんも強制疎開で東北の方の寺に行ったと聞いておりましたが、海軍の軍人であった父親はアッツ島で玉砕し、東京に残った母親とまだ幼い弟は、昭和20年5月の空襲で煙に巻かれて死んでしまい、彼女は孤児になってしまいました。国はこのような国家のために亡くなった軍人の孤児には、無償で面倒を見るという形にはしたようですが、戦争で家族すべてを失い、天涯孤独での小学生が、どうやって生きていったらいいのか、考えただけでも涙が出てきてしまいます。

5月の空襲で、千駄ヶ谷の家も焼けたことを、父から聞かされ、「やっと家も焼けました」という父の報告には私たちも笑いながら聞いていましたが、隣のケイコちゃんの母親と幼い弟が、同じ空襲で煙に巻かれて亡くなったことを聞かされたときには、思わず黙り込んでしまったことを昨日のように思い出します。

悲劇はこれでおしまいではなく、その後4ヶ月足らずで終戦になりますが、疎開児童の解散は終戦後二ヶ月くらいから始まりましたが、東京に集団で帰っても、親もいない、頼りになる親戚もいない孤児たちは、上野の地下道などにあふれ、物乞いをしたり、盗みをしたりして、たくましく生きていました。

ところが、進駐軍が東京に入り、しばらくして上野浮浪児などが非衛生的であり、見苦しいというGHQのお達しに、警察は浮浪児狩りを始めたのです。これらの浮浪児たちは、ほとんどが集団疎開組の孤児たちだったはずです。

私の同年代の小学生が、それもたくましく、都会のゴミの中で生き続けた事実を私自身も見聞きしてきました。そのことは別稿でまたお話しします。

疎開といえば、学童だけでなく、外国の大使館なども、国の指令で、軽井沢や山中湖など別荘のある地域に疎開していました。軽井沢の万平ホテルには、外務省の分室が置かれたとかいう話も聞いています。避暑地も、時によってはこんな使い方もあるようです。