都会の樹木

冬になると木の葉が落ちてそれぞれ特徴ある木の樹形がよく見えてきます。例えば東京都で一番多い街路樹はイチョウですが、気になるのは最近一枚一枚の葉っぱが昔に比べて小さくなっているように思えます。

よく考えれば都会の樹木は過酷な環境でやっと生きているというのが現状ではないでしょうか。特に街路樹は道路の一部施設として樹木毎に仕様も決められていて、しっかり管理されているわけです。しかも大方の道路には、街路樹と平行して、電信柱が立ち、そこに電線や、通信ケーブルが、複雑にからみあって、その間を縫うようにして枝を伸ばしています。

そうした街路樹は定期的に、都や区の管理部門(建設事務所の補修課、街路樹係といったところ)により、障害物を避けるように枝を切られ、上に伸びすぎた木は天辺を切られ、俺はどう成長したら良いのだ!と樹木の気になってみれば、そう叫びたい気持ちになります。道路際の民間の敷地にある樹木でも、伸び伸びという訳にはいきません。ちょっと道路側にはみ出れば、ばっさりと、出っ張った所を容赦なく切り落とされます。まさに満身創痍という所です。

又葉っぱの清掃も楽ではありません。町田市の方に聞いたのですが、市の方から、農業をやっている方に、堆肥作りに必要でしょうから、掃除かたがた、持っていってほしいというと、何も興味を示さず、何らかの経費を払うからと言うと一生懸命持っていってくれるということだそうです。

戦時中はこの様な枯葉を集めて、イモの苗床を作っていたことを覚えています。枯葉が発酵してくると、真冬なのに、その中に手を入れると、生暖かかったのを覚えています。話がそれました。

ちなみに東京都全部で街路樹が何本あるかといえば少し古い資料ですが2008年版の「Tokyo道路のみどり」によれば、486,388本です。そのうち区部に約290,000本、多摩部で約200,000本あります。意外に区部の街路樹が多い感じがします。

一番多いのが上述のごとくイチョウ、以下順にハナミズキ、サクラ類、トウカエデ(楓=フウ)、ケヤキです。

都心でも特殊な地域では、例えば迎賓館や東宮の周りには、ユリノキが背高く伸びています。外苑のイチョウも有名です。また多摩御陵のケヤキ街路樹も伸び伸び育っています。こうした例はまれで、ほとんどが外側の樹皮近くで水分や栄養分を吸い上げ、やっと生きているのが現状だと、東京都の樹木医の方から聞いたことがあります。

その方によれば、都会の樹木は役に立たないと言うので、どういう意味か聞いたら、材木にならないという事だそうです。確かに緑の葉で木陰を作ったりはするが、木本来の役割としては、木として使えるということが大切だということだそうです。

それを聞いて、それでは人間も同じで、都会でちゃらちゃらサラリーマンなどをやっていて、あたかも格好良く生きているように見えるが、実は結局他人のためには役に立てる人間として使えないという意味にも通じそうですね?と聞き返したら、それはそうでしょうと淡々と言われ、本来木も人も、伸び伸びと育つ広い環境と土台(土)が必要で、街路樹などは、小うるさい親に「あっちに伸びては駄目、こっちに伸びろ」と頭を打たれ、手足をもぎ取られて生きているのも同然ではないでしょうか?と言われました。

小説でも、スタンダールの「赤と黒」に主人公のジュリアン・ソレルが神学校の校庭の一本の大きな木を前にして、長年昔の歴史を見続けてじっと立っている大木を尊敬の眼で見ている情景があります。

空海(弘法大師)が生まれ、小さい頃に育った香川県善通寺市にある、善通寺に大きなクスノキが茂っています。

こうした風景は、色々な意味で人に大きな影響を与えているに違いありません。

私がサラリーマン駆け出しの頃、部長さんが、「君ねえ、商社に入ったら、家なんてあまり早く買ってしまうと、人はそれにとらわれて、自由に動き回れないので、じっくり構えて、天井の高い家を作らなくては駄目だよ」と言われたことがあります。今時天井の高い家に都会で住むことなどは難しく、せめて田舎の茅葺きの古民家は天井が高いので、それを買い取って住んだらみな立派な日本人になれるかも知れません。

要は都会のちまちました生活をしていると、人間考え方は小さくなるし、土台はしっかりしないし、碌な事はないという事でしょう。せめてたまには都会から飛び出して、広大な大地と大きく育った樹木などを眺めてみるのも、良いかも知れません。