謝って済まない話

テレビを見ていたら、消費税値上げ法案が通ったすぐ後で、野田総理が「消費税を引き上げるということ(中略)マニフェストには明記してございません。記載しておりませんでした。このことについては、深く国民の皆様にこの機会を利用してお詫びをさせていただきたい」という。確かこの方は「不退転の決意で、政治生命を懸けて、命を懸けて」とか言っていたはず。

私がまだ若かりし頃、日本のゼネコンH組と海外でダム建設を行っていたとき、若い主任が現場でミスをして、上司に謝っていた。上司いわく「謝って済むような仕事をすんじゃねー!!」と叱り、「人の命がかかってんだ。いい加減な仕事をするなら、とっとと日本に帰れ!!」と付け加えた。

私ども日本人は通常の生活で、気軽に「ごめんなさい」とか「すみませんでした」とかいう言葉を乱発する文化がある。これはある意味で日常の集団生活を円滑にするための、極めて日本文化的習慣かもしれない。しかし、謝って済む話とは何かをよく考えれば、究極のところ、命に関わる問題は謝って済まない話であるし、謝られる方にしても許すことができない話であろう。

先日起こった滋賀県大津市 のいじめ自殺問題では、学校や教育委員会は当初、ぬけぬけと「いじめはありませんでした」と言っておきながら、後から「すみませんでした、今後このようなことが起こらないように…」となった。やはり、謝って済まない話であろう。

もし、野田総理が本当に「自分の命」を懸けて信念を持って消費税値上げ法案を通したかったのなら、国民に謝罪などせず、「これであなた方国民は結果として幸せになります」とでも言ってみたらどうだろう。謝罪したということは、自分の命ではなく「国民の命」を賭けて、自分の政治をやりたかっただけではないのか。

本来政治家というものは、国民の命を預かっている、大変責任ある立場の人たちである。民間企業に例えれば、首相は社長さんで、国民は社員およびその家族だ。民間企業で社長が社員の命に関わる問題で社員にお詫びをするというのであれば、東京電力や山一証券といった過去の例を引き出すまでもなく、社長が自らその地位を退くのは当然のことである。にもかかわらず今回、国の最高責任者である首相が国民の命に関わる問題でぬけぬけと謝罪しておきながら、その地位にとどまっているのは謝って済まない話であろう。

このようないい加減な仕組みを助長させているのは、かなりの部分マスコミ、特にテレビの罪が大きい。