道具の発達と内容との反比例

私が新入社員だった昭和30年代の中頃、手紙は候文の形式がかなり残っていた。「拝啓 貴社益々御清栄ノ段大慶ニ存ジ奉リ候。陳者、掲題ニ関シ…」と続く。このように、当時の文章は漢字とカタカナで構成されていた。これはもともと漢文がベースになっていたからだと解釈している。現在のように漢字とひらがなで構成されるようになったのは、かなり後になってからだったと記憶している。

海外との交信は、基本的に航空郵便と電信だけです。国際電話は余程のことがない限り使いませんから、担当者レベルではかけたことがありません。

郵便は、役所や社内の海外店へは和文で、客先へは英文でした。しかし、今のように自分のパソコンで書くのではなく、さんざん上司に破かれたりしながら完成した草稿を、タイピストルームの女性に清書してもらい、上司のサインをもらって初めて出状ということになります。

ここで大事なのは、何といっても人間関係。タイピストには和文担当と英文担当がいて、結構年齢の高いおばさまや、着物で通勤されていた方もおられた。いかに早く仕上げてもらうかが勝負になるので、普段からその方たちにガムをあげたり、ちょっとしたお土産を買ってきたり、とにかく胡麻をすったものです。

電報は、平文で打つケースもあったが、料金体系が一語(5文字以内)いくらで設定されているため、アルファベット5文字のコードを使って打つのが普通でした。一般の商用文では、アメリカやイギリスで発行された「ACME Commodity and Phrase Code」や「Bentley’s Complete Phrase Code」等のコードブックを利用していて、どのコードブックの第何版を使っているかは、各社のレターヘッドに書いてあるのが普通でした。

こうしたコードは全体の文章を秘密にするためというより料金をセーブするのが主な目的で、明治の終わりごろからかなり使われていたはずです。コードは英文の有用なフレーズが上手に組み合わされており、結構英語の勉強になった記憶があります。

一般的なコードブックの他にも、特殊な業界、例えば缶詰業界とかでは、それぞれ特殊コードブックもあったようです。日本の商社などでは、上記のようなコードブックとは別に自分たちの社内用コードブックも持っていて、よく使う文章はコードで暗記しているような課長さんが多勢いました。

時には、政治的な動きなど、デリケートな問題を現地と本社の間でやりとりする場合には、その時々でプロ野球版コードとか大相撲版コードなどを作ってやりとりし、現地の政府に気を遣って余計なトラブルを防ぐ配慮などをしたケースもありました。例えば、東の横綱は大統領とか首相、西の横綱は反体制派の頭領、東の大関はA大臣…などとして文章を組み立てるわけです。

国際電話の中身が盗聴されるなどは、ある意味で常識でした。バクダッドでは、ちょっと長めに国際電話をかけていると、電話局から「もう良いですか?」などと日本語で話しかけられました。誰が日本語で話しているのか興味があったので、ある時、「もう話は終わったからいいけど、今度キムチの漬け方を教えてよ!」と言ったら、受話器の向こう側が大笑いして終わりになりました。社会主義国であったイラクが、アジアの社会主義国から「技術協力」を受けていたのだと思います。

その後、通信の手段としてはファクシミリが出てきたが、これは現在でも使われている。また、書く道具としては、ワープロが出てきたが、かなり初期段階では据え置き型の大型で、フロッピーも薄っぺらな大型のもの。そのあと、卓上型のワープロが出てきた。

少し遅れてパソコンが登場するが、それも容量はわずかなもの。すべてDOSのOSで、いちいちコマンドを打ち込んでファイル名の変更やコピーなどの指令を出すことになる。その時代には未だ一人一台ではなく、必要なときに棚から引っ張り出して、自分の机の上で使用し、また返却するというのどかなものでした。

それからやっとWindowsが出て、電子メールも普及し、やっと一人一台時代になったが、そうなると個人が直接お客さんとメールで文書のやりとりをする。さらに携帯電話が加わり、個性が丸出しの文書が飛び交い、昔のように上司が部下の文書をチェックするという機会はほとんどなくなってくる。

私の友人で世界銀行に出向した人が、行ったばかりのときに、隣のお嬢さんに「ゴミはどこに捨てたらいいの?」と聞いたら、「メールで返事したから」と言われたそうで、「ちょっと口で言ってくれれば済む話を!!」と言って嘆いていました。これは外国の話と思っていたら、あるとき社内で若い人に「今日の会議の時間は何時だったっけ?」と聞いたら、「メールを入れてあります」と答えられた。彼にしてみたら、多分「このうるさいじじいめ。必要なことはメールで入れてあるから、俺に直接話しかけて仕事の邪魔をしないでくれ」という意味であったのだろうと解釈している。