日本の産業革命と戦争

明治5(1872)年に、官営工場としてフランスから最新鋭の機械を入れて建設された、富岡製糸場が世界遺産に登録され、話題になっています。日本の指導者の決断で、この案件がその後生糸の生産、輸出による外貨獲得などに貢献しています。

その後、日清戦争(1894-1895)や日露戦争(1904-1905)を経て、ますます日本の産業振興が進み、更に第一次大戦(1914-1918)から今年で100年ということで、欧州(フランスやドイツ)で記念式典が盛大に催されているそうです。第一次大戦の発端となったサラエボの町中のラテン橋は有名ですが、これに第二次大戦(1939-1945)を加えると、なんとたった51年間に4回もの戦争を日本はしたことになります。

そんなに日本人は戦争が好きだったのでしょうかね。集団的自衛権でも、どなたかが、戦争するには金がかかるんだよ!と言っていましたが、全くその通りで、過去の上記戦争にしても、特に、日清、日露では、国債を発行して戦費を予算化して、その穴埋めには、金持ちから直接税で吸い上げると共に、たばこや塩などを利用して間接税として徴収したようです。又戦勝して多額の賠償金を手に入れ、それで国債の返済金に充てたり、軍備力増強をしたりと、まあ国家がばくちをやっているようなものです。

そこで一体、明治維新から、こうした幾つかの戦争をしながら、日本の産業構造や貿易、私企業などがどうなっていて、政治と経済と国民がどんな関係にあったのかを、少し検証してみようと思い、「日本の産業革命」(石井寛治著)を読んでみると、筆者である経済学者が、古い統計を使いながら実態を上手に説明されています。

結論として、日本の産業発達史の観点からは、官民ともに実にバランス良く、時代背景に合わせて、必要なものは海外の一流どころから輸入し、出来るだけ国産化も推進するという方向で進み、日本の私企業が可なりがんばって、商社、機械メーカー、素材メーカー、電気、電動機メーカー、それに電力会社と鉄道会社、また、国産化できる小銃や機関銃といった兵器なども、日本最大の兵器工廠が受け持ち、結果として、世界で一流の物作り大国として生き残ってきたことが分かります。

一方、争い事の主演者である政治の世界は、先進帝国主義国である欧州(英、独、仏など)や米国の後を受けて、明治維新後、これら先進帝国主義国から植民地化されないために、憲法制定や法制度の充実などを行い、何とか後発帝国主義国として存続するために、必死でやっていたということです。日露戦争は、言い換えれば、ロシアはフランス、ドイツの後押しを受け、日本は英、米などの後押しを受けた、後発帝国主義国同士の代理戦争であったという考えも、ある意味うなずけます。

そして日露戦争後、海軍力の強化という観点から、戦勝金を使って、英国に最新鋭の戦艦などを発注。英国も世界のバランスの中で、自国だけではカバーしきれない海軍力を、日英同盟で形を整えたというわけです。まもなくして第一次大戦が始まりますが、日本の政界でも、ハト派が押し出され、海軍なども、本来日本の商船護衛の目的などどこかにすっ飛んで、戦場で戦うことが目的になって、第二次大戦に突き進んで行くわけです。

こうして見てくると、どんな時代背景があるにせよ、民間はそれなりに苦労しながらもがんばって生きて来たわけですが、問題は時の政治家達が下した結論が、第二次大戦の時のように、結果として、悲惨な戦争の道に繋がったわけです。

ここで私たち庶民が考えなくてはいけないのは、無責任なポピュリスムに乗っかって、安易に賛成したり反対したり、大衆迎合的意見で動く責任は重いということを、充分歴史から学んでおく必要があるということでしょう。

「われわれは21世紀には市場経済の持つ限界を真の意味で克服し、地球という限られた自然環境のもとで人々が生きる社会的生産と社会的消費の新しいスタイルを基礎とした社会を構想し、搾取と差別のない新たな未来社会をなんとしても実現しなければならない。それなくしては人類社会の未来はきわめて暗いものとなろう」と筆者の石井寛治氏は言っています。

第二次大戦後、まもなく70年になろうとしていますが、その間、少なくとも日本は戦争をしていません。上記のような命題をまじめに考えられるのは、平和であればこそであって、戦争を起こしてしまっては、どんな議論も意味を持ちません。争い事をどう鎮めるかではなくて、どうしたら起こさないかがポイントだと思います。