語り伝え(伝承)の大切さ

2011年3月11日に発生した東日本大震災以来、東京の直下型地震や、東南海大地震等々、近々起こりうる大災害についてその予報や対策など色々議論され、TV等でも報道されていますが、結局は一人一人の命の問題です。歴史的に何千年、何億年単位では勿論、大災害が起こっているのは事実ですし、私たちが現在生きている、たった100年前後の間でも、災害が起こったそれぞれの地域で、その後の復興や、その時に生き延びた人々の生の声が必ずしも生かされていないような気もします。それぞれの地域で身近に起こった災害で生き延びた人たちの現場の話をもとに、今一度来たるべき大災害にどう覚悟をして、どう命を守るのかを整理して見るのも良い機会かと思います。

  • 岩手県田老町のこと

「自然災害に挑戦し、防災の町を確立」

田老町は、明治22(1889)年4月1日に田老村、乙部村、末前村、摂待村の4村が合併し、新「田老村」として誕生しました。昭和19(1944)年3月10日に町制を施行し、平成17(2005)年に宮古市と合併して現在に至ります。

この間、田老は数々の災害を受けてきました。明治29(1896)年6月15日の明治三陸地震津波で1,859人、昭和8(1933)年3月3日の昭和三陸地震津波では911人の犠牲者を出しています。また、昭和34(1959)年10月には雨量581.2mmを記録する集中豪雨により家屋536戸が浸水、昭和36(1961)年5月には「魔の火」といわれた三陸フェーン大火によって全町の2分の1以上に当たる58.6平方キロ、家屋519棟(640世帯)を焼失しています。

このように、津波、水害、火災とたび重なる災害を受けたことから、田老では防災対策に最大の力を入れて来ました。昭和9(1934)年に着工した津波防潮堤が昭和33(1958)年に完成。さらに二重目の防潮堤が昭和54(1979)年に完成し、高さ10m、総延長2,433mという世界に類例のない規模の大防潮堤によって町は守られています。また、昭和56(1981)年に全町を網羅する防災行政無線が完成、平成12(2000)年は戸別無線機を設置し、津波避難路も着々と整備が進むなど「防災の町・田老」を確立しています。

まさに災害の連続のような田老ですが、ここで注目したいのが、昭和8年の昭和三陸地震による津波の被害です。この時には田老だけでなく、大船渡など沿岸の大多数の漁村などが津波で被害にあい、その後の対策として、大船渡の町の議会での記録が残っていて、「山側(高台)に町を移すしか方法がない」という決議がなされ、これを中央官庁もサポートをした経緯があります。ところが旧田老町の町長は、漁業の町としては、高台に漁民が移ったのでは仕事にならないので、防潮堤を作るべしとして、県庁や中央省庁に掛け合い、反対にあったが、「町の予算でもやる」ということで、最終的にはこの案が採択され、ホームページに紹介されているように、高さ10メートル、延長2,400メートル以上の防潮堤の工事が開始されました。しかもその工事に関わった技術主任は、東京市長として活躍した岩手出身の後藤新平の下で各種防災施設を作ってきた技師を連れてきて、指導に当たらせたそうです。しかしその後第二次大戦が始まり、若者は徴兵され、工事は中断し、完成したのが昭和33年(1958)で、更に二重防潮堤が昭和54年(1979)に完成しました。

この街作りの立派なのは、防潮堤を作る際に、町の道路を整備し防潮堤から山に向かって一直線の道路を作り、災害が起きた時に、避難すべき方向が一目で見えるようにしたことと、道路の交差点での混乱を避けるために「隅切り」と称して、交差点の四隅をカットして、通り易くしているところです。この様な写真は「田老町津波防災資料集」として、旧田老町のホームページに、災害の状況なども含め掲載されていました。

この様な設計は今回の3.11の津波の時にも生かされました。昭和8年の時の津波を経験して生き残った90歳代の女性が、今回もこの道路を通って避難して難を逃れました、彼女は自分の娘に、常日頃から、備えが重要で、寝るときには暗闇でも服が着られるように、ちゃんとたたんで枕元に置き、履物も、玄関にちゃんと揃えておいて置くといった非常時の教えと、重要な避難グッズを常に用意し、いつでも持ち出せるように、きつく躾けたと言っています。

実は昭和35(1960)年のチリ津波の時に、大船渡は大被害を受けたのですが、ここ田老は、被害がほとんどありませんでした。それを新聞報道などで、この高い防潮堤が田老を救ったのだと報道したのですが、実際には、田老に来た津波が低かっただけで、そのような誤報道が、その後、防潮堤さえしっかり作れば津波は防げるという神話を生んで、その後、何処の町でも防潮堤を建設することになるのですが、その神話が、今回の3.11ではかえって人々に安心感を与えてしまった事実もあるようです。

田老ではそうした反省も含めて、年に一回大々的な防災避難訓練を地域ぐるみで行っているようです。昭和8年に生き残った90歳代の人々が、自分の周りの人たちに、生き証人として、一人でも命を生きながらえてほしいというメッセージを、いまも発信し続けています。そうしたことは、災害が、東北とか、岩手県とかいう広域の話ではなく、自分の町や村といった、極めて限定的な出来事として、子供や孫に直接言い伝えて行く事で、防災という抽象的な言葉ではなく、自分達の直接的な問題だという考えが重要であるということを教えてくれているのではないでしょうか。