ヒッタイト族お手伝いさんの水利用と口コミ

ベイルートの戦乱のため、家族はしばらくロンドンに避難民として滞在していたが、それぞれの家族はその後、中東の諸国に散らばって勤務することになった。

バグダッドは当時、かの有名なサダム・フセインのおじさんにあたる、ハッサン・アル・バクルという人が大統領を務め、国民もこれから良い国になると感じて、シーア派もスンニ派も仲良く暮らし、事務所のボーイも、暇があれば英語の本を片手に勉強をしていた。

そんな時代に、お手伝いさんとして我が家にやってきたのは、多分年の頃は16か17才位で、まさに日本の童謡ではありませんが、「15でねえやは嫁に行き」といった風情の女の子でした。丁度うちには乳児幼児が二人もいたので、子守程度に考えて、家に働きに来てもらった。

初日は、まず家内がうちの子供を遊ばせてもらうにも、あまりにも体はほこりだらけだし、洋服も汚れていたので、新しい洋服を買ってあげて、まずはお風呂に入らせて体を洗ってもらった。彼女は生まれて初めて西洋式の浴槽に入って、髪の毛から、つま先まで、全身くまなく何年ぶりかの垢を落としたので、浴槽には真っ黒なお湯と砂がたまっていたそうです。

風邪でも引いては可哀想だと思っていたが、本人はにこにこして気持ちが良いらしく、ご満足の様子でした。子守は自分の家でも兄弟が大勢いるらしく手慣れたものでした。

段々と仕事に慣れ、家の中の掃除も一人でやるようになった。掃除の仕方を興味津々で見ていたが、まずはバケツ一杯の水をくんで、居間のテーブルなどあまり汚れていないところから丁寧に拭き掃除を始め、床、台所と進めて、最後はトイレの掃除をする。見事なもので、日本の16~17才の子供に掃除などさせてもとてもこのようには行かないでしょう。

一番びっくりしたのは、水道水なのでいくらでも取り替えればよいものを、最初の水をずーっと最後まで使い続けたことです。一杯の水で家中を掃除する能力はさすがに砂漠の国で身についた技です。

丁度少し込み入った話もしてもらうために、アラビア語修業生上がりの石油担当者に通訳代わりにこのお手伝いさんに色々聞いてもらったところ、とても面白い答えが返ってきました。まずこのお手伝いさんはヒッタイト族出身だというのです。ヒッタイトといえば、昔中学の歴史の世界で習った記憶によれば、鉄器を発明した民族のはずですが、今時歴史博物館から飛び出してきたような民族が目の前に現れるとは思いませんでした。また本当にまだそんな民族がこの世に存在していることに驚きでした。

勿論言葉は通常アラビア語を話して生活しているようですが、研修生によれば、ヒッタイト語という言語は存在するのだそうです。それで水の話をしてもらうと、水は水道から出るようになっても依然貴重品扱いなので、彼女たちの家でもいつもこのような使い方が常識であるようです。日本であれば、環境省から「水の節約ナンバーワン」として表彰したいくらいです。

もう一つの疑問は、私が住んでいた地区は新興住宅地で、所番地もまともでなく、勿論電話はついていません。連絡は会社の運転手が直接家に来て、メッセージを伝えるという極めて原始的な手段です。

ところが、青年協力隊の人たちに家に遊びに来るように、適当な地図を書いて渡しておいたのですが、案の定迷ってしまって、1キロも先の方で、日本人の家を探しているがどこか知っているかと聞いたら、車5台持っている日本人の家ならここだということで、すぐ判ったというのです。車5台というのは、会社で5人分の車を持っていたので、仕事の中身に応じて使い分けて、お互いに取っ替え引っ替え乗っていたので、正解ではあるのですが、なぜ日本人の家というだけで、ぴたりと判るのか、不思議に思っていたので、このお手伝いさんに聞いてみると、次のような答えが返って来ました。

元来アラブ社会は口コミの世界です。そこで、近所に外人さんが来れば只でさえ珍しいのに、文化の違いそうな日本人が家族で引っ越してきたので、近所の人もこのお手伝いさんに、色々聞いてくるのだそうです。曰く、何人家族だとか、日本人かとか、何の仕事をしているのだとか。結果として、周り半径1キロメートルくらいは充分伝達の範囲内だそうです。

更に、いわゆる遊牧民がいて、家の前の空き地で、土窯を作ってナン(パン)を焼いていたのに家内が興味を持って、子連れで見学して、ついでにそのパンもおこぼれを頂戴してきたりしていました。普通こうした遊牧民とは、一般人はお付き合いをしないそうです。しかしこの異国のキュリオシティーの固まりのような我が家族は一緒になってパン焼きを楽しんでいたので、彼らには興味を持たれ、且つ、一緒にパンなど食べていれば、悪い人たちとは判定せずに、いい人達というレッテルを貼って、この遊牧民のグループがあちこちに情報を伝播するというのが仕組みのようでした。

あるとき、見たような背広を着て、颯爽とうちの事務所のボーイさんがメッセージを伝えに家に来てくれました。よく見ると私がついこの前まで着ていた紺色の背広なので、家内に聞いたところ、結構冬になるとバグダッドも底冷えのする日もあり、寒そうだったので、あんたの背広をそれほど痛んでもいなかったので、着るかと聞いたら、喜んで試着してから、そのまま、着て帰ったそうです。その後ずいぶん暑くなっても着続けていたので、結構気に入ってもらったのだと思っています。

新しいものを買ってあげるほどの事ではなかったので、中古の背広で勘弁してもらったのですが、こんな小さいことが、彼にとっては多分とってもうれしいことであった事のようです。こんな小さな事が、コミュニティーの生活に潤滑を与え、住みやすい地域を作ってゆく原点ではないかと思っています。

それにしても、確かに電話など無くても、充分情報は伝わるし、生活に何の不便も感じなかったのですが、むしろこれが人間らしい生活で、パソコン、携帯、スマホなどあふれんばかりの情報設備を持ちながら、コミュニケーションがろくに出来ず、あるいは情報過剰のために、女子学生同士で、殺し合いになるという痛ましい事件を見るにつけ、一体「便利」とは何のためなのか?この辺で考え直さないと、プラスかマイナスか、○か×かの生活をしていると、日がな一日じっくり考えるなどという習慣はほとんど不可能ではないかと余計な心配をしてしまいます。

あれからイラク全土で戦乱と内乱が渦巻き、今まで静かだった庶民の生活も生きるか死ぬかの状態だと聞いています。皆が上手に生き残ってくれていることを祈るばかりです。