お墓の話

最近、ベトナム・ハノイで公苑墓地が満席で、足の踏み場もなく土葬されるので、火葬設備もあるのですが、日本のように普及しておらず、またシステマチックな形にはなっていないようです。

市としても、対策は色々考えているようですが、なかなか良いアイデアは無いようです。翻って、日本でも墓の問題は最近の日本人の死生観とも相まって色々と微妙に変化しているようです。生きているのが大変な世界で、死んでからも色々考えなければならないのは問題です。そこで、少しお墓談義をしてみようと思いまず。

そもそも墓って誰のためにあるのか?と問われれば、死んだ人とためでは無いような気がします。死んだ人は、生前自分はこの墓に入るのだろうと思っていても、入れるかどうかは残された人が決めるので、死んだ人は関係ないと言ってしまえばそれまでのこと。

墓だって、世界中を見渡してみれば、千差万別、イスラムなどでは墓らしいものはなく、墓標を建てるところもあるようですが、遊牧民等は砂漠に遺体をそのまま葬って、砂をしっかりかけて終わりというところもあります。

ただし、イスラムでもキリスト教でも基本的には死んだ人は「再生する」という教義があり、再生するからには、肉体が必要なので、遺体を焼却するという習慣はありません。しかし、燃やす、焼却するということは、地獄というイメージもあるのでしょう。遺体の焼却場は聞いたことがありません。エジプトなどでは、遺体はそのまま埋葬しますが、お墓は人が住めるくらい立派な石作りのものが並んでいます。

私がアブダビでゴミ処分場の話で、市の担当者と処分場のサイトを車で物色していたときに、高速道路脇の土地を指して、ここは元々墓場だったが、市のゴミ処分場にしたところですとさりげなく言っていました。後で別の方に聞いたら、まさにその通りで、別に元墓場を処分場にしても何も問題なしという答えでした。

石の墓の歴史は中国だと思いますが、それも家族間の絆の強い縦社会で、ご先祖さん崇拝から来ているようです。日本や韓国、ベトナムなども仏教国ですが、私が駐在していたラオス等は典型的な小乗仏教の国ですが、墓らしい墓はありません。そもそもインド発祥の古代仏教では墓などは作らない、というよりは死んだ人に思いを寄せてはいけないと理解しています。

それでは、日本のお墓は先祖代々寺が一生懸命守ってくれるのかといえば、最近では、地方の寺では檀家の少なくなり、寺が持たずに、よその寺に身売りをする話も多いようです。東京のど真ん中でも、戦後私が住んでいた赤坂台町(現在は7丁目)の隣は江戸時代からの寺の墓場で、五つ重ねの立派な墓がいっぱい建っていましたが、お盆に線香を上げる人もなく、我々ガキどもの昆虫採集の場所になっていました。

また、住宅の敷地に当時は生ゴミを捨てる穴を掘り、そこが近所の人たちの共同の台所ゴミ捨て場になっていました。その穴を掘るときに、江戸時代の棺桶が時々出てきたのを覚えています。

最近、近くに所用があって、そこを訪ねてみると、さすが東京のど真ん中、我々の遊び場だった墓場は見事に住宅開発地となり、高級住宅街になっていました。寺としては無縁仏になった墓をまとめて、跡地を住宅地として売り払ったのだと思いますが、まあ世の中そんなもんで、先祖代々、跡継ぎをしっかり生んで、墓守をさせるほどご立派な「家」を守れるような社会の仕組みにはなり得無いので、せめて生前亡くなった人を知っている人がたまに線香でも上げられる場所があれば、それが墓場としての役割だと割り切って考えた方がよろしいのではないかと思っている次第です。

だいたい自分の両親や祖父母にしてもあんな小さな暗いところに黙って入って、じっとしているはずがないと勝手に考えています。自分だってテニスコートほどの墓ならいざ知らず、生きている時でさえ、小さな家に住んで、死んでからも小さな空間に閉じ込められるのはまっぴらごめんというところでしょうか。