戦争と平和(1)

毎年8月になると、終戦記念日で、第二次大戦時中の悲惨な話や苦労話がTVやラジオで放送されます。私自身も戦争経験者ですし、東京に住んでいたので、縁故疎開をしたり、隣近所の幼なじみが戦争のために、孤児(みなしご)になったり、一つ一つが鮮明な記憶として残っているので、何気ない話ですが、当時としては淡々と受け入れ、今となっては貴重な記憶として、細かい陰影までが残っています。

こうしたことが二度とないようにと口癖のようにTVのコメンテーターは言いますが、私としては、どうも人間というものは、懲りない性分で、時が経てばいずれまた、似たような事を始める動物だとあきらめているところがどこかにあります。そうしたことが出来れば無いように、反省と自戒の念をこめて、当時の庶民がどのような生活をしていたのか、具体的な話をしてみます。

最近はバブル崩壊とか、リーマンショック、アジアマネークライシスなど、経済破綻に関する事件には事欠きませんが、そもそも、その発端である、昭和の世界恐慌と言われるブラックマンデーから始まるクライシスについては、話題にはなりますが、一体その当時の世相がどのようなもので、ニューディールと称している政策がどう実施されたのか?調べてみようと思ったら、アメリカ人のジャーナリストのフレデリック・ルイス・アレンという人が「Since Yesterday」というタイトルで、その辺の事情を書いていました。その1930年代のアメリカも色々な暗い事件が多く、今の日本の状況に似ていなくもないのが気になります。

その頃、日本でもとんでもない事件が起こります。私が生まれるわずか10日ばかり前の昭和11(1936)年2月26日、いわゆる2・26事件です。当日は雪が降っていたそうで、若手の将校が部下を引き連れ、今で言うクーデターですが「昭和維新」と称した「蹶起趣意書」を掲げ、私らが住んでいた千駄ヶ谷界隈からも、赤坂の歩兵第一連隊(今のTBSあたり)から出た部隊は、当時の大蔵大臣・高橋是清邸(青山通りのカナダ大使館そば)に押し入り、大臣を殺害した。当時の首相・岡田啓介も首相官邸に乗り込まれたが、風貌が総理に似ていた、義弟の総理秘書官がいきなり前面に出て、顔を打ち抜かれたが、岡田首相は押し入れに逃げ込んで、人違いのまま、うまく逃げたということです。

突然私事ですが、生まれる寸前の赤子(私!)を腹に抱え、雪の降る寒い2月末に、母もずいぶん気をもんだのではと想像しています。

昭和天皇は、自分の信頼する閣僚たちを殺害するとは何事と怒り、初めから「逆賊」として取り合わなかったとのこと。また、海軍もこの報を聞いて、芝浦に軍艦を据えて、永田町に砲を向けたということです。要は、事を起こすときに、掘り割りを充分埋めず、自分たちの理想だけで事を始めたのが大間違いという教訓でしょう。仕事もクーデターも、相当緻密に練り上げておかないと、滅多に成功はしません。特に武器や、力、権力を持っているものは心して事に当たれという教訓だと思っています。

ところで、この殺害の第一目標は閣僚たちでしたが、二次目標としては、三井・三菱などの財閥の当主もターゲットになっていたそうです。資料によれば、三井は、昭和金融恐慌に続く、昭和7(1932)年の5・15事件の年に、三井がドルを買い占めたことを批判され、当時三井合名の理事長であった團琢磨が、財閥に対する非難の矢面に立つことになり、昭和7年3月5日、東京・三井本館入り口で、血盟団に狙撃され、暗殺された。その事もあり、三井としては、情報収集と保険として、半期毎に当時の1万円を寄付していたようです。

事の終末は、戒厳令を敷き、本部を今の九段会館(元軍人会館)に置き、永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂界隈を占拠していた若手将校群を取り巻き、2月29日に武力で制圧する旨通告し、下級兵士の家族なども集まり、若手将校をののしったりして、ただ命令された兵士たちを救え等のデモもあったようです。それであっさり、投降し、後は軍事裁判で3月末頃までには、大方の結論を出し、死刑になった若手将校が多かったようです。

この話は本題ではありませんが、このような血なまぐさい事件が、私の生まれる前後にあったというのは、どう見ても胎教にも良くないし、その後の自分の人生でも、第二次大戦は勿論、ベトナム戦争や、中東戦争にまで、仕事の関係でも経験したというのは何かの因縁でしょうか?

ここからが本題の庶民話ですが、今回はここまでにして、次回、我々庶民の生活についてお話しします。