仕事の仕方あれこれ(日本語力と教養)

前回の英語に絡んで、問題の日本語について少し考えてみます。以前、コミュニケーション能力について、大手の人事部長の話として、コミュニケーション能力のある人間が欲しい、中身を聞いたら名前を呼ばれたら返事位してくれ、というのが人事部の希望だという話をしましたが、これはコミュニケーション能力でも無ければ日本語力でもありません。

これでは議論にもならないので、もう少しレベルを上げて、まずは読書について、考えてみます。20代の若者は勿論、30代、40代でも、若い頃にどんな本を読んだかを聞いてみると、ほとんど本らしい本は読んでいないことは事実のようです。勿論、例外はあります。そうした人も知っています。

しかし、大方の人たちが若い頃に本を読んでいない。読んでも週刊誌かハウツー物か、その程度。こくのある本や古典と言われる本などは、まず名前を挙げても、作者名も作品名も聞いたことがないというのが実態です。なにも文学部を出て作家にでもなるわけでないのだから、そんなもの読まなくても良いだろうという声が聞こえてきそうですが、そういう方は堂々そのままで日本語を話し、メールを書いて頂ければ結構です。

日本語というのは、ある意味非常にやっかいな国語で、歴史的に見ればやまと言葉の他に、支配階級が使っていた漢文がつい最近まで、実際に通常の日本語の中でも色々な形で使われていたわけです。中国三千年の漢字の歴史をベースに日本で発達したカタカナやひらがなをベースに、和歌や俳句などの要素も入って、現在我々が使っている日本語が成立しているわけですが、私自身が生きている間でも、可なり日本語の中身は異なってきています。

例えば、私が小学生の頃は、蝶々(ちょうちょう)は「てふてふ」と読んでいました。蝶は漢音で「てふ」で、いわゆる「ちょうつがい」のことを、蝶番(現在では丁番と書くのが普通)と書きますが、「番」は二つでセットとなるものの意味ですから、蝶(てふ)が二つで、蝶々=てふてふとなったのでしょう。いずれにしても「蝶」を漢音のまま日本語として読んでいただけのことです。

このように漢字の音や成り立ちや中国の風俗習慣までもが、日本語の表現に中にたくさん出てきますので、これらも含めよく知ることが、日本語の勉強には不可欠です。更に明治の近代化の折に、欧米の言葉を日本語に訳した新語も、現在我々は普通に使っていますが、経済とか函数とか微分積分など、中国の古代の「経国済民」「経世済民」などから導入したり、内容から日本語に直訳型で、「Differential and Integral calculus」を微分積分などとして、結構近代日本語でも色々と苦労をして来た形跡があります。こうした国語の歴史も念頭に置いて、現在私たちが日常使っているビジネス日本語も成り立っていることを知る必要があります。

司馬遼太郎が、現在、我々が通常新聞や仕事や学校などで使っている通常の日本語は、夏目漱石から始まって、戦後しばらくして週刊誌が発行されるようになり、この記者たちが書いていた日本語が、現在の通常日本語の原点でないかと言っています。例えば、ビジネスマンに泉鏡花の文体で出張報告書を書いてみろと言っても、とても報告書にはならないでしょう。私が新人の頃はまだ、商社では、通常の文書はすべて、漢字、仮名交じり文でした(平仮名は使わない)。また、役所に出す文章は、特に、出だし部分は漢文調の文語体でした。

そうした意味で、時代背景なのでしょうか、最近の若者が「私の明日の出社は13時となっております」とメールで連絡してきました。次の日に「レストランのボーイさんのメニュー紹介ではあるまいし、『となっております』は無いだろう! 自分が出社するのだから、日本語としては『私は何時に出社します』だろう」と言ったら、そうでした!とのことです。

私の姉の友人で、都市銀行に勤めた才女がおりまして、あるとき姉に宛てた手紙が「古文」で書いてありました。まあ、そこまで文学乙女になれとは言いませんが、少なくとも日本語の古典くらいは読んでおくことをお勧めします。

専門分野の話でも、放送大学が博士課程を設けるに当たって、3人の指導教授で面倒を見て、主任は勿論その専門分野ですが、後の2人は出来るだけ幅の広い、教養を身につける必要があるという観点から、専門分野以外の教授を充てるようです。

最近の朝日新聞にも、若者がネットからのコピペ文化に犯されて、自分で物を考える力がなくなっているので大問題だ、という記事がありましたが、これは自分で考える以前に、自分で基礎知識とか、教養を身につけるために読書をするなどという、時間のかかることはしない文化が出来てしまったようです。

しかし、知性と教養を身につけるために読書を勧めても、読まなくなっている事実は事実で、先日も書きましたが、ごく最近、ロマン・ロランの「魅せられたる魂」の第1章の部分で調べたいことがあって、東京でも大手の本屋に行って、岩波文庫からも出版されているので、気軽に出向いて見たところ、驚いたことに、すべての出版社が現在再版の予定はないとか、絶版ですとかで、結局、全集物も文庫物も全滅で、古本屋か図書館に行くしかありませんでした。以前はこれでもかと、この種の西洋文学の本は新本が並んでいましたが、今は「売れない」から作らないだけのようです。結論的に言えば、本屋には毎日多数の出版物が出ているけれども、どう見ても、重厚長大な出版物ではなく、比較的軽めのものが多くあふれているという結論になるのでしょう。インターネットからの教養だけでは、とてもこの先の日本文化は思いやられます。

放送大学にしても、やっている内容は面白いものもありますが、なにせあのTV画像を見ていると、折角の映像を使っているのに、先生の顔を延々と写して、しかもその先生が半分以上は下を向いて、テキストを見ながら講義をしているという、大学での一番面白くない授業の典型のようなことを平気でやっているのがやけに気になります。

こんな話は、何も日本に限らず、文化国家で、自国語のフランス語にうるさいフランスでさえ、TVのインタビュアーが「あなたはどこから来られたの?」と聞くときに、「あなたは来た、どこから?(Vous êtes venu, où?」と聞きます。意味は分かりますが、文法的には間違った会話だと、うるさ型のアカデミー・フランセーズのおじさんたちが言っているようです。

どこも国でも悩みは似たようなことのようです。であればこそ、こんな時代に、オーソドックスな知性と教養を身につけた方がいれば、それは目立つだけでなく、社会の役にも立つのではないでしょうか?

余談ですが、今年の冬に大雪が降っているときに、川崎市の環境展に行き、ベトナムのある省のブースで、日本の大学に留学しているという女学生2人に会いました。非常に日本語の会話が流暢で、何でも理解している様子なので、何年間日本語をやっているのか聞いたら、たったの3年ですという。やはり彼女たちの根性が違うし、それなら日本の会社に充分就職できるはずなので、これからどうするが聞いてみたら、ベトナムにある日本企業に就職が内定しているという。自分でやりたいことは色々あるので、日本語や就職はその第一歩だそうです。

日本の学生さんも、これからは世界の若者と競争して、社会に出なければならい訳で、その分自分をブラシュアップして、社会に出る必要があります。日本の学生さんも、がんばって、自分に磨きをかけて新しい時代を背負って頂きたいというのが私の願望です。

これでひとまず、新入生対象のコラムを一休みします。