飯を食うために

どんなご立派な会社でも、昔は年に1人か2人くらい、鬱病で休暇を取ったりしていた。しかし、最近のマスコミの情報では、「なんちゃって鬱病」という訳の分からない理由で休暇や離職をする人が、以前に比べ10倍にもなるという。もちろん、現在は昔と時代背景が違うといってしまえばそれまでだが、サラリーマン生活を50年も続けてやっていると、時代背景だけのせいにしてよいものかどうか考えざるを得ない。

人間が人間に影響を与えるということが教育の原点であると考えているが、この結果は影響を与える側と受ける側の双方のあり方によってかなり違ったものになってくる。「だから、教育は難しい」などという難しい議論をするつもりはないが、役人の理屈や組織の都合ではなく、現場こそが教育の出発点であろうと思う。こうした現場重視の現実論は、プロジェクトの建設現場など、民間ではごく当たり前のことだ。

私は横から何かを言えるほど人格者ではなく、さりとて他人を説得できるほどの口達者でもないが、最近、依頼されて東京近辺の大学の講師を楽しんでいるものの一人として、あえて何か日頃感じていることを書いてみたいと思う。

私の時代は、「なぜ大学なのか?」とか、「なぜ働くのか?」という問いに対して、答えは極めて簡単だった。まずは、「飯を食うため」。そして、「よりよい飯を食うため」。その上で「生きるということは何なのか?」とか、「人生とは?」といった哲学的命題に挑戦して生きてきた経緯がある。

しかし、現代はどうか。飯は食える。時間もある、楽しいこともいっぱいある。きわめて平和だ(少なくとも日本では)。そんな時代に、「何を目的に生きるのか?」とか、「何のために働くのか?」と言われてもぴんと来ない。

こうした時代の変革期にあっては、いろいろな規則が時代に追いつけない。だから、規則を守らない。でも、規則を守るだけではなく、時代に合うように変革する能力が求められているはずだ。価値観が多様化してくる中、「いったい何が大切なのか?」という設問を投げかけられているのが現代なのではないだろうか。