戦争と平和(4)(都会っ子の暮らし)

今では田舎ではなくなっていますが、当時鶴川は充分立派な田舎で、都会っ子が美しい里山生活が出来たことは、自分にとっては貴重な経験だったと思っています。しかも、戦時中ということで、色々な事件や、日常生活の中で子供仲間のこと、学校生活、日々の里山生活、野山での遊び、村祭り、だんべい言葉等を思い出せる限り書いてみます。

  • 寺での生活

昭和18(1943)年の春に鶴川村の寺に疎開し、そこでの生活が始まるのですが、私たち家族(母と姉と妹と私の4人)に、便乗で父の兄弟の家族が二組(おばさんと、その子供たち兄弟2人、更に父の弟の上海帰りのおばさんと幼児1人)、合計母親3人に子供が6人で、ちょっとした集団疎開です。

寺の水場には山から湧き出る掘り抜き井戸があって、おいしい水が、いつも吹きこぼれていました。裏には竹藪があり、春にはタケノコが採れ、裏山には落葉樹があり、2~3年毎にクヌギなどの木を切って、山から降ろし、薪にして、物置小屋(といっても大きな一軒家の藁葺き納屋)の脇に積み重ねて、調理や風呂沸かしに使います。

冬には緑黄野菜が無くなるので、秋の終わりに、大根の葉っぱを大釜でゆでて、つるしてからからに乾燥させて、ヒバにして、冬場に使います。味噌や醤油も寺で使う分だけ自家製で作っていました。梅の木も立派なのがあり、取れた梅は梅干しにし、春になると、掘り抜き井戸から流れる水の脇に芹などが生えてきます。

動物タンパクとしては、田んぼのタニシがご馳走です。子供たちは、野山をかけずり回りながら、桑の実を、口を真っ赤にして食べたり、グミの実を食べたり、時には山で見つけたアケビの実がとてもおいしかったです。柿は、あの辺では小ぶりですが、熟すと甘みがあっておいしかったです。

親戚の農家では、春はお茶摘みして、自家製のお茶を蒸して、揉んで、新茶を作ります。蚕も飼っていて、桑の枝を切って、餌として毎日続けて供給するのは重労働です。取れたマユで、糸を紡ぎ、機織りも小学校の上級生の女性がやっていたのを見ていました。

要するに、基本は自給自足の生活です。しかし、戦争が激しくなると、だんだんと穀物などが少なくなり、お百姓さんはまだ食いものを作って居たので、特に不自由はしていなかったようですが、我々都会のサラリーマンの家族はそうもいかず、いわゆる「竹の子生活」(皮を一枚一枚はいで行く)をせざるを得ず、母が嫁に来るときに持って来た着物などは、ほとんど食べ物と交換され、我々欠食児童の腹の中に収まったというのが、当時の食糧事情です。

終戦間近になると、穀物はほとんど無く、糠やフスマを食べ、それでも足りなくて、蓼の葉っぱを乾燥させて、べったら焼きにした事がありますが、とても食べられたものではありませんでした。普段のお昼は間違いなく、良くて蒸かしたサツマイモです。それも「ガソリン芋」と称して、金時芋などとは比べものにならないくらい、まずいものでした。

食べ物で一番思い出すのは、夏の暑いある日、我が家4人で買い出しに行き、母と姉、妹の3人が「暑いのでスイカが食べたいね!?」と言った会話をしていました。それじゃ、スイカを買って食べようかという事になった時、私1人が「スイカ1個を買うのなら、カボチャが3個買えるので、やはりスイカは止めた方が良いんじゃない?」と言ったので、結局スイカは止めになりました。

寺に帰ってその話を寺の嫁さんにして、みんなで盛り上がっていました。曰く「村野家は安泰だ! 長男がしっかりしているから、カボチャを食って、世帯を持ち直してくれるよ!」と言われてしまいましたが、今考えても、小学校の2~3年生が、こんな発言を何気なく言葉にすること自体が異常な世界だったのではないか? いや、そうではなくて、多分現在でも、国によってはそんな国はいくらでもあるので、むしろ今の日本の方が異常なのではないかと思ったりしています。

寺なので、本堂には何十枚もの雨戸がありました。これを毎朝、毎晩、開け閉めをするのは私たち小学生の役目です。結構な労働ですが、戸袋にきちっと収納しないと最後まで入りきらないので、ここがポイントです。また、本堂の庭を高箒で、波形に跡を付けて掃くのですが、これが毎日やっていると一種の趣味の世界に入り込むことになります。季節によって、イチョウの葉っぱ、大きな槇の木からの落ち葉など色々です。

後は風呂の水くみですが、これが結構重労働です。両手で大型のバケツに水をくんで、水場から風呂場まで約十数メートルの所を往復します。今考えると、孟宗竹の立派なのがあったので、これを樋に出来たはずと思いますが、ひたすら労働で結果を出していました。

寺の行事としても楽しいことがありました。4月8日のお釈迦様の誕生日には、寺の嫁さんが、ツバキの花を集めて、お釈迦様の像を収める小さな御堂の屋根を飾り、甘茶を作って、お釈迦様に掛け、残りを子供たちが頂戴する。正月明けには「どんど焼き」があり、松で囲った大きなたき火を夕方燃やしますが、その残り火で、米粉で作った小さな丸い団子を、ミツマタの枝にきれいに飾り、それを残り火で焼いて家に持ち帰り、醤油を付けて食べるのですが、この単純な食べ物のおいしさは忘れがたいものです。

この辺では「おこじゅ」という方言があり、いわば3時のおやつという意味ですが、神奈川県や埼玉方面でも使われていたようです。そこで農家の友達と遊んでいると、おばさんが「おこじゅにすんべー!」と言って声を掛けてくれ、ゆでた栗や、サツマイモにありつけるというわけです。

鶴見川の支流に鶴川という川が流れていて、そこで、普段の格好(半ズボンにベルトを締め、シャツ姿)で、おぼれたりしながら水遊びをしていました。家に帰るまでには、革のベルトも乾いていればOKなのですが、少ししめっていると、「また黙って川遊びをしていたね! おぼれて死んだらどうするの!」と怒られます。

普段は近所の友達と、野山を駆け回って、竹で弓矢を作ったり、小川でシジミを取ったり、ウナギの仕掛けを夕方川辺に差し込みに行って、翌朝引き上げに行ったり、基本的に勉強はなしです。