花子とアン

NHKの朝ドラで、「赤毛のアン」の翻訳者として有名な村岡花子の伝記をやっています。山梨の小作人の娘として明治26(1893)年に生まれたはな(安中はな)の田舎生活が描かれていますが、実際には彼女が5歳の時に、田舎のしがらみを絶って東京の品川に移住し、父親がお茶の葉を売る店を始めたようですが、兄弟姉妹が8人もいたようで、まともに教育を受けたのは彼女1人だったようです。

現在放送されている、彼女の実家である小作人の生活は、現在の若い方が見れば、もう100年以上前の「昔の話」の一言で終わってしまいそうですが、申し上げたいのは、実はあんな風景は、むしろ日本の原風景のようなもので、ついこの前まで、私自身が体験した話です。

小学校では、昼に弁当箱を開ければ、蒸かしたサツマイモがころっと入っているだけとか、まだそうした弁当でも持ってこられるうちはましで、昼になると何気なく教室から出てって時間をつぶすような、弁当を持ってこられない児童も何人かいました。仮にお弁当を持ってきても、その中身が貧しいときには、女の子などは隠すようして食べていた子もいました。

当時はどこの家でも兄弟姉妹が多く、年端もいかない小学生が乳飲み子をおぶって学校に来ていたりもしましたし、小学校が終われば、農家の次男坊以下は奉公に出されたりして、今から考えれば、まるでおとぎ話のような話ですが、現実です。

こんな話は昔の話と片付けるのは簡単ですが、実際には現代でも、給食費を払えない親御さん、あるいは払えても払わない親がいたり、貧富の差が大きく、母子家庭では母親が夜の勤めに出るために、乳飲み子を与かってくれるキャバクラなどで何とか生きているような人たちがいるのも現実です。

近頃では、親が子供に食事も与えず、餓死させてしまった事件もあります。一体こうしたことを無くすには、自分がひもじい思いをしたことが無く、また自分の子供より遊びに興味が移っていったなどと証言しているのを見るに付けて、食えない時代はそんなことはなかった、なぜ食える時代にこんな事件が起きるのか?と考えてみても答えは無い。ただ食えるから「いい加減に生きているから」としか言いようがない。

私の友人で、はなと同じ山梨県出身で地主の息子として育った人がいますが、彼の祖父は、明治時代に山梨で葡萄酒を作るために若手2人をフランスに留学させた仲間の1人のようで、彼自身も地主の息子として、小作人の子供達と一緒に遊んで育った訳ですが、小さい頃から、何かと小作人の面倒をみている親を肌で感じて生きて来たのが手に取るように分かる人です。彼が新入生の頃、一目見て、この程度のマネージメントなら、今すぐにでも自分も出来ると思ったというのです。私のようなサラリーマンの息子として育った人間には思いも寄らない発言で、親の背中を見て育つということの意味が良く分かる出来事でした。

別の友人は長野県の出身で、武田信玄の末裔だと言っていましたが、彼が東京の大学に受験に来たときの話をしたときに、私たち田舎から出てきた者は、その村の栄誉を一身に背負って東京に出てきたので、あんたのように江戸っ子で東京のど真ん中で育って、何気なしに東京人になっているのとは訳が違うんだという話をされたことがあります。

確かに、私の出た大学は長野県人が多く、ほとんどの人が当時は安定した職業といえば学校の先生だったので、先生志望の学生がほとんどでした。まじめで、勤勉そのものだったことを覚えています。

こうした親に育てられた子供にたまたま会う機会があったので、立派に日本を背負って立っていることを、親である友人に電話をしておきました。

ここまで書いて、はたと自分自身のことについては、とても背中を見せられるような生き方はしていないことを反省して、この稿は終わりにしておきます。