新版・戦争と平和

前項(人間はどうしようもない動物なのか?)で、個人の犯罪(殺人)について、学者先生の話をひもといてみましたが、これが国家間の戦争となると話は違ってきます。

最近は第二次大戦の経験者も少なくなり、実体験者の話を後世に伝えなければならないという話が多くなってきています。確かに「歴史」になってしまった「事実」は、経験したことのない人にとっては、単に、昔はこうだったらしい、という感覚しか無く、語り継ぐという事の難しさを感じます。

特に国家が起こした戦争は、民に有無を言わせず、赤紙一枚で徴用され、戦地に出向いて人殺しをすることを訓練され、大方の場合、死ぬことを強要されるというのがパターンです。

沖縄の最前線で看護助手として、女学生がこの世の地獄を味わい、最後には追い詰められ、どうしようもない状態で突然「解散」と軍から言われ、逃げ場もなく死ぬしかない状態でも、何とか生き残った方がそうした話を語り継いでおられるようです。その女学生達のまとめ役であった看護婦長さんがまたご立派な方であったようで、こうした混乱の中で、女学生達を慰め励まし、温かく支えてくれたようです。

また、最近ハワイ沖の深海で発見された、日本が敗戦間近の段階でやっと完成した、世界最先端・最大級の潜水艦「伊-400」(正確には潜水空母艦)の話も色々考えさせられます。この潜水艦の当初の開発目的は米国西海岸攻撃で、次がパナマ運河、最後は南方に集結した連合艦隊への攻撃…と目的を変えざるを得なかったと、最後の南方への出撃の段階で終戦を知らされ、日本に帰還する途中で米国海軍に拿捕され、武装解除され、日本に帰還した、当時17歳の最年少の乗組員が当時の話をされていました。

私は大学生時代に、明治40年頃にフランスからやってきた世界企業のAir Liquid社を、1930年頃に軍が関係して「帝国酸素」という会社にしたいきさつがあり、戦後、そこの役員で元海軍の技師であった方から直接この話を聞いたことがあります。ちなみに、潜水艦にとって酸素を作る技術は大変重要で、今でもAir Liquid社は日本で活躍している会社です。

昔から、「戦争」と「平和」という言葉を対として使うことが多いようですが、最近の国会でのやりとりを見ていると、どうも少し違うのではないかと感じています。私は修辞学だの、言語学だのは全く無知の人間ですが、戦争は戦争で、始めから終わりまで戦争です。平和は戦争があるから平和があるのではなく、本来、何でもなく民が平穏に暮らしているのが平和であって、戦争とは関係のない言葉だと解釈しています。

「積極的平和外交」と称して、現在日本人が海外で大勢働いたり、遊んだりしていますが、一旦事が起こった場合、日本国政府としては、これら日本人を救出するために、戦争のための道具(武器)をもってでも救出する、だから皆さんは安心して平和な生活が出来るのですという。

ちょっと待って欲しい。第二次大戦中、私は小学生でしたが、米国の艦載機に機銃掃射を受けて茶畑に逃げ込んだりした経験もあり、また戦後は海外で、それも特に戦闘地域国で働いてきた経験があります。

ベトナム戦争時代、中東戦争時代、そして旧ユーゴスラビアの内戦など、実際に自分たちが雇っていた労働者や職員が、戦争で殺されたり、拉致されたり、或いはクウェートの国境で行方不明になった日本人労働者をイラクの秘密警察から救出したり、色々な目に遭っています。しかし、これはあくまで私企業の自己責任に於いて行っている話で、充分注意をしながら、危険回避をしながら仕事をしているわけです。

仮に今、ある地域で戦闘状態になり(充分あり得る想定です)、日本人が危険に遭遇していたとして、実際にどのくらいの救助作戦が立てられるのかは大変疑問です。最近の出来事で、アルジェリアのJGCのスタッフの痛ましい事件がありましたが、あのケースでは、日本政府としては手がつけられないでしょう。すべて後の祭りです。

所詮私企業の話は、すべて自己責任です。下手に日本の「軍隊」が出て行き、武器を使って、現地で何らかの作戦を実施したとしたら、別のリスクが生じる可能性も大ありでしょう。

とにかく「平和のために」は「戦争もしますよ」と言った、平和を道具にして、戦争ごっこが出来るような話にはして欲しくありませんね。

だいたい古今東西、主権国家が戦争をしたケースで、国民の総意でやむを得ず国家が宣戦を布告したというケースは皆無です。所詮時の政府が、何らかの理由で(おおかたは自己中心的理由で)、戦争を始めるわけですから、その犠牲者は何時の時代でも民です。

宗教的な理由、民族的な理由での戦争も有りというかも知れませんが、それこそ、政府がしっかりとマネージすれば、何の問題もなく、民は異なる宗教、異なる宗派、異なる民族でも共存できる訳です。

実際にバグダッドなどでも、今でこそシーア派だのスンニ派だのと言っていますが、以前は全く問題なく、市民は入り交じって生活していたわけで、一旦政治問題が起きると、民としては体制に従わざるを得ないという状況で、結果としていらぬ紛争を起こさざるを得ないのが実情でしょう。

アメリカはブッシュ政権の時、イラクに対し、おまえの国は民主主義国家でないとか、大量破壊兵器を隠しているとか、いちゃもんをつけて、結果としてはパンドラの箱を開けてしまって、今やイスラム国等という訳の分からないものまで生み出してしまった。そんな同盟国?と一緒に戦争ごっこをしようなんて考えるのはいかがなものでしょう。

かつて(僅か70年前)は鬼畜米英と言って戦った相手が、あと100年たって敵にならないとも限らない。だから所詮戦争は戦争で、繰り返し起きうるものと考え、そのとき(仕掛けられたら)どうするのか?を戦争の理論として考えれば良いことで、平和なときに、平和のために戦争もやりますよと言えば、仮想敵はやはり同じ穴の狢かと思うでしょう。

だから戦争ではなく、うち(日本国)は平和しか考えていません、みんな仲良くやりましょう、ただそれだけです。だから馬鹿なことを我々に仕掛けないでほしい。だいたい今まで、日本を攻めて軍隊を送ってきたのは蒙古軍だけでしょう、それも九州の端っこでちょこちょこやっているうちに、台風で一夜にして全滅したという歴史があるだけです。

それほど日本というのは他の国家に比べて大変ユニーク、言い換えれば大変恵まれているとも言えます。だから、平和だけ考えています、相手に戦争は仕掛けませんと、憲法でも言っています。という、他の国から見ればとんでもないことが言える国なのだと思います。そんな、とんでもない国が地球上に一つくらいあっても良いのではないでしょうか。

経済問題では、いわゆる資本主義もそろそろ行き詰まってきて、次には新しい仕組みが出来ないと破綻してしまうと言う経済学者もおります。多分そうなのでしょう。以前は、行き詰まったときには世界大戦などでリセットされて、そこからまた新しい競争が始まったのも事実ですが、そうした事が起こらずに、世界の富の大部分を一握りの人たちが持ち、あとはすべて貧乏人になってきている現実から、世界中がこうなったらどうなるかという議論をしているようです。私は、人類が滅亡する時が問題を解決出来るときだと思っています。

かつて、恐竜が命を落としていったように、人類が滅亡するというシナリオがどうも正解のような気がしてきました。皆さんはいかがでしょうか?