世界のお手伝いさん事情(人を使う、人に使われる)

サラリーマンなら人に使われ、少し経ったら、人を使う立場も両方経験するわけですが、これが個人の立場で、使われたり、使ったりする場合には可なり事情が異なります。

戦前では、東京でもちょっとした家なら「ねえやさん」と当時呼称していたお手伝いさんがいました。また個人商店などでは、番頭さんがいて、「たかどん」とか「何々どん」というような呼び方をしていて、年期が明けると、のれん分けをしてもらったりして、独立するというシステムがありました。

戦後は段々そういった個人の家庭で人を雇うというシステムは廃れ、事務的に派遣介護士とか、ベビーシッターといった業務別人材派遣システム(なんとも無機質な言葉ですが)が主流です。

しかし、最近でも海外生活をすると、欧米などの先進国は別として、アジアや中東その他発展途上国では、個人でそうしたお手伝いさんを雇える、あるいは雇わないとそこでの生活がしにくいなどの地域もあります。家族だけの生活をするだけでも色々と大変なのに、そこに他人を入れて言わば共同生活をするわけですから、それなりに大変なところもあります。どういう事になるのか、うちの奥さんからは「私は女中以下ですから」と言われて、いつも怒られていますが、そこはおいといて、海外に話を移します。

タイでは、決まって、お手伝いさんには気をつけなさい、ちょっとしたものが、何気なくなくなるので、といった会話が交わされていました。隣国のラオスでお世話になった、ベトナム人のおばさんの話をします。娘が結構大きくなっていたので、年の頃は60過ぎといった所かと思いますが、実に立派な「お手伝いさん」で、日常の炊事洗濯は当然として、朝の出勤の着替えは靴下から、ワイシャツまで、一揃え、食事が終わる頃にはきちんと出されており、家の中の冷蔵庫には鍵がかかっています。彼女に「泥棒が入るわけでもなし、また良かったら冷たい飲み物も適当に飲んでもらって結構ですから」と言っておいても、決して、そこには手を付けたことがありません。

あるとき、彼女が風邪を引いて、つらそうにしていたので、今日は良いから自宅に帰って、ゆっくり治るまで休んでいて結構ですと言っておいたので、彼女は丸三日間休んだあと出勤してきた。その月の給料を(月極で払っていたので)現金で封筒に入れて払うと、彼女はしっかり勘定をしてみて、これでは多いという。私は3日休んだので、その分を差し引いてくれと言う。大した違いはないから、そのまま受け取って下さいと言って、その場を収めた。

後から事務所で雇っている年寄りの筆頭クラークのライさんに、この話をしてみると、ここに来ているベトナム人は大方が何らかの職を身につけた人が多く、例えば洋服の仕立屋さんとか、ベトナム料理のコックさんとか、お役人さんとか、当時の東銀さんのクラークであったりして、単純労働者は少なく、それなりにプライドを持っているので、他国で(隣国)生きるためには、その信用が大事なのだという話だった。私はその信用というのは私たちへの信用は勿論だが、仲間の信用が最も大事なのでは?としつこく聞いたら、その通りで、仲間の信用を失っては、華僑と一緒で、この世界で生きて行くことが難しくなるという説明だった。

ところで、彼女は誰が探してくれたのかと聞いたら、実はあれの旦那は私の知り合いで、世話になった人なので、今は私が世話をしていると言って、彼自身の身の上話を始めた。ライさんと言うのは自分の息子の名前で、その息子が亡くなったので彼の名を名乗っていたというわけですが、第二次大戦後9年後の1954年3月~5月に、ベトナムがフランスと戦った「ディエンビエンフーの戦い」という有名な戦があり、実は彼はその時の大物で、その時に彼の部下だった男が戦死し、その嫁さんが、上述の「お手伝いさん」だったということでした。フランス側兵力13,000のうち、2千人以上が戦死、残りはほとんど捕虜となり、結果、フランスがインドシナから撤退する事になった。

後になって、ある日アメリカ大使館のCIAの方がうちの事務所に来て、お宅はライさんという人を雇っているが、彼の経歴はご存じかと聞かれたので、よく分かって雇っていると答えたら、それなら別に問題ないが、彼はディエンビエンフーの戦いで活躍した人物で、連合国側からすれば、言わば敵であった人物で、彼の若い頃の写真まで見せてくれた。

考えてみればアメリカにしてみれば、当時ベトナム戦争の真っ最中で、しかもこのフランスが敗退したディエンビエンフーから10年しか経っていない時期であり、気にして当然なのでしょうが、今となっては歴史の中の1ページという感が強いのは致し方ありません。ただ、第二次大戦後まもなくの朝鮮動乱、その後の、このフランス植民地敗退戦、さらに後米国のベトナム戦への介入と、このベトナムの律儀なお手伝いさんにしても、こうした戦乱の続く中で、人生の命を繋いできたという現実はご立派という他はなく、この信用をプライドで繋いできたお手伝いさんに敬意を表するとともに、その後も歴代の日本人所長さんに仕えていたことをお伝えしておきます。