はじめに

最近は技術の進歩や社会の仕組みの移り変わりが早い。例えば、今の20代の人たちはパソコンを普通に使っているが、彼らにしてみればWindowsという仕組みが当たり前であり、その性能に多少の違いこそあれ、もうずっと以前から今のような仕組みで動いていたと思っているふしがある。DOSのコマンドなど知る由もなく、ましてや、タイプライターを進化させたワープロ専用機時代に、薄っぺらな樹脂の記憶媒体を傷つけないよう後生大事に扱っていたことなどは、遠い昔の歴史の1ページに過ぎない。

ホチキスに代わった糊(のり)と鋏(はさみ)と紙縒(こより)、コピー機に代わったカーボン紙や青焼(アンモニア式複写システム)、電卓に代わったそろばんといった昔の道具は、今や博物館入りである。こんなものがなくても、現代の日常生活に何ら支障はない。

戦前生まれの私は、江戸時代生まれのばあさんと一緒に暮らし、明治生まれの親やおじさんたちの生き様を見聞きして育った。戦争中はアメリカの戦闘機に機銃掃射され、戦後は食糧難のため、赤坂の焼け跡で百姓のまねごともした。

長じて商社に就職し、海外のいろいろな人種、民族、文化、宗教に接した。東南アジアでは、華僑との付き合いからそのルーツを教えられた。中東では、オイルショック後の第四次中東戦争やベイルート内戦の最中、イラク駐在などで北アフリカからイランまでを飛び歩き、アラブを知る機会を得た。

また、八幡製鐵(現・新日本製鐵)の稲山嘉寛氏、三井物産の水上達三氏、日本商工会議所の永野重雄氏、本田宗一郎氏等々、昭和の経営者のトップに接する機会も得、その言葉や行動を体験した。大阪の中小企業の経営者たちからは、その真髄を教えられた。最近では、就活真っ最中の大学生に海外与太話も交えて、これからの生き方について話す機会を持っている。

来し方を振り返ると、その時代時代で生活様式や便利不便の違いはあるにせよ、日本はもとより、世界中いずこにあっても、そこには人の営みがあり、どんなに世の中が変わっても、綿々と受け継いできた人それぞれの変わらないものが、おぼろげながら見えてくるような気がする。

昔に比べ、現在では日本から世界に向けて飛び出してゆく人々の数が圧倒的に増えたが、それが観光であれ、商売であれ、果たしてそれらの人々がどれだけ相手のことを理解し、自分を認識しているのか、この国際化と称される時代にどうも疑問符を打ちたくなるような事象にぶち当たることがある。

そんな観点から、日本人がその歴史の中で引き継いできたよい意味での遺伝子を、私のつたない経験を通して少しでも語り伝えられればと思い、これからいろいろなテーマでエピソードも交えながら書いていきたいと思う。特に、若い世代の方々に読んでいただければ幸いである。