息子は母親の持ち物か?

現代を見てみると、いろいろな面白いキーワードが出てくる。いわく、「息子は母親の持ち物か?」少子化の上に親父弱体化社会のあおりを受けて、母親が大学の入学や卒業式はもちろん、入社式にまで出席する。息子は息子で母親の庇護(ひご)の下、「ひ弱」で「悪(わる)」で「役立たず」。

自分の家の中が「社会」と勘違いし、電車に乗る、道路を歩くといった、公共の場での生活が全くできない。道のど真ん中で平気で携帯で話しながら歩く。電車で暴れる。ゴミはポイ捨て。そして母子共に「持つべきものは金とモノ」。決して知識や教養ではない。誰が悪いのか?簡単、時代のせいにしておけば問題なし!

そして、「都会的生活」。家は空調が効き、移動はマイカー。コミュニケーションはスマホでメール。しかも、感情表現は絵文字で表しているつもり。たまに考えても頭だけで考えるから、一神教と同じで行き着くところは固定化され、絶対化してゆく(柔軟性や余裕が生まれる術もない)。そして、相手を認めない。

恋をしても頭だけで考えているので、相手はまるで自動車部品のようで、「彼女のここはいいんだけど、あの部分が気にくわない」とか平気で言う。「じゃー、部品交換でもしたら」と言ってやると、けげんそうな顔をする。好きなのか嫌いなのかを聞くと、「好き」だという。「一部でも好きなら、トータルで好きになればいいジャン。切り張りはできないんだから、しっかり手入れをしてやったら」と言うと、「手入れって何ですか?」と言う。

東北は山形県の田舎で生活したことがあるアメリカ人のダニエル・カールさんは、初め柔道部に入って、上級生絶対服従という考え方がよく分からなくて殴られた。理解できないし、納得できなかった。アメリカなら、理屈(頭)で考えて、「こういう理由で殴るのはおかしい」とか議論をして、みんなが納得する(まさに脳で考えるか、体で考えるか)。

パソコンでチャットをしたり、掲示板に書き込み合う仲だった同級生を小学生が惨殺するという事件があったが、あれもまさに頭だけでの世界で(脳の中だけでバーチャルな世界が出来上がっていて)、実生活は何もなかったという悲劇だろう。あの子だけが特殊なのではなく、最近はあの子のような生活をしている子供がかなりいるのではないかと思う。

宗教論争をするつもりはないが、西欧やイスラムの一神教は「信」の世界で、神を信ずることの世界と了解している。しかし、我々仏教の影響を受けてきた民族は、「覚」の世界、すなわち体で覚えるとか、目覚めるとか、精神の修行によって会得するとか、どちらかといえば、頭より体で覚えるという歴史の流れの中で生きてきた実績がある。

そして現代は、日本中どこへいっても快適な「都会的生活」をするための社会基盤が整備され、電気、水道、下水、道路、通信、情報といったモノを、あまり体を使うことなく、容易に手に入れて生活ができる。そうした現実からスタートして、いったい現代とは何で、これからはどうなっていくのかを考えてみる。日本は過去、どうゆう流れだったのか、将来子孫は何を引き継いで生きるのかという歴史的展望を失ったら、目先の俗悪に染まってしまうことになるだろう。