ベイルートの内戦

現在、シリアでは内戦で大混乱のまっただ中です。こうした事態での被害者は常に弱者です。日本では、内戦とか反乱というものをあまり経験することがありませんが、実際に世界では、政治、宗教、民族、イデオロギーなど、色々な理由で内戦なるものが起こります。それが終わってみると、いったいあれは何だったのか?といったケースが多いようです。私たちが実際に海外で経験した内戦あるいはそれに類することについて、いくつかのケースを検証してみたいと思います。

  • 戦闘のある日常

ベイルートは以前、中東のパリと言われるほど美しく、地中海に面し、気候温暖で誠に過ごしやすい都市です。実際に、中東のオアシスとして、砂漠の国々から避暑や休暇や買い物に出かけて来ます。ところが、第4次中東戦争をきっかけに、ベイルートにはキリスト教徒とイスラム教徒が住み分けており、理由は極めて曖昧ですが、なぜか段々といがみ合いながら、治安が悪くなるといった具合です。

例えば、マンションの管理人が、今日は町に戦車が出ているので、外出は避けた方が良いといった情報を、我々住人にも知らせてくれます。笑い話ではありませんが、家内がまだ乳児である息子を「ちょっと外出するから預かって」と言うので、管理人さんに聞いてみると、彼はうちの家内に、「奥さん急用ですか?」と聞くと、家内は、「今日頼んでいた宝石が出来上がって来るので、取りに行く」と言う。「奥さん、宝石と命とどっちが大事なのですか?」と言うと、「当然宝石です」と言って、タクシーで宝石を取りに行って帰ってきた。管理人さんはあきれ果てて、日本人は何を考えているのかよく分からないとつぶやいていました。

あるとき、メーカーの営業マンがベイルートに来て、当時イスラエルがパレスチナのゲリラ対策に送り込んだ秘密部隊が「コマンドス」と呼ばれて、年中銃撃戦をやっていた時代のこと。(この特殊部隊は、例のミュンヘンオリンピック襲撃事件を起こしたパレスチナゲリラの「黒い九月」のメンバーを追撃するためにイスラエルで組織され、その後北欧なども巻き込んで、世界的な事件として有名ですが、本題ではないので割愛します)

彼がベイルート市内のホテルから空港に向かうというので、送ろうとしてタクシーに乗って途中まで行くと、道路を挟んで銃撃戦をやっていた。そこで、コマンドスの一人に、「日本人が空港まで行くのだが、回り道も無いので、何とかならないか?」と言うと、「ちょっと待ってくれ」と気安く言うと、なにやら分からないが「連絡をしている」と言う。しばらく待っていると、「ちょっとの間だけ戦闘を中止するので、早く通り抜けろ」と言う。私は帰れないといけないので、そこでタクシーを降りて、彼だけを空港に行かせた。何かあれば電話をするように言って、私は自宅に帰った。

しばらくすると、電話がかかってきたので、てっきり無事に着いたという話かと思ったら、ホテルに預けていたパスポートをもらってくるのを忘れたので出国出来ない。それで、何とか今日はホテルに戻って、再度飛行機の予約をするという。無理をしないで戻るように言って電話を切った。夜中に再度電話があって、ホテルに戻ったことを確認した。

そんなわけで、いわゆるこれは内戦ではなく、他国の人間が、ここベイルートで秘密活動をやっているという仕組みです。

  • ベイルートからの脱出

しかし、そんな話も段々エスカレートし、我々プロジェクト部隊は近隣諸国で仕事作りに励んでいたとき、ロンドンからバグダッドにテレックスが入り、昨日戦闘が激化したので、最後のMiddle East Airlinesの飛行機でベイルートの家族全員をロンドンに避難させたとの連絡を受けた。私のところはまだ乳児幼児が2人もいたので、どの程度の荷物を持って避難したのか少しは心配したものの、会社が面倒を見ていてくれるだろうと勝手に思って、こちらは仕事を続けていた。

後から家内から聞いた話だが、毎晩、マンションの下で小銃の操作をするカシャカシャという金属音がするので、ベランダに出て見てみたり、パレスチナの兵隊がマンション一軒ずつを回って、寄付と称して小金を集めに来たりしていたとのこと。

その後は皆さんご承知かと思いますが、キリスト教徒とイスラム教徒の間でベイルートの町を壊したいだけ壊して、おしまいということです。私どもも、マンションに残してきた家財道具や子供たちのアルバムなど、金に換えられない思い出もすべて残したままになってしまいました。20世紀も終わりになろうというこの時期に、なぜか私たちから見ればあまり意味のない戦闘を繰り返し、死と破壊を積み重ねることを、今でも飽きずに続けていることに、あきれるしか無いというのが実感です。

ベイルートからの避難民はどうだったのか? うちの家内は、乳飲み子をあの日本風のおぶいひもでたすき掛けにおぶって、左手で幼児の手をしっかり握り、右手に最低限の荷物をまとめてヒースロー空港に降り立ったようです。その時、ロンドンの店長夫人が出迎えてくれたのですが、彼女は幼い頃、満州からの引き揚げ者だったようで、私の家内の格好を見て、その時の様子を思い出し、思わず涙が出てしまったようです。それで支店の方々に、ベイルートの避難民を手厚くもてなすようにという指示をして下さって、避難民は買い物や動物園見学などをしていたようです。

日本人の家族は避難したが、現地の職員のことも気になったので聞いてみると、それぞれ部門別に必要な地域に割り振って、近隣のシリア、ヨルダン、エジプト、中には欧州店などにも振り分けて勤務してもらいました。ごく最近ですが、私のセクションで働いていたレバノンの女性がベイルートから電話をしてきて、今でも元気にしていると連絡がありました。

ベイルートはまさに中東の火薬庫であった証は色々ありました。ベイルートの南部にはゲリラの養成所などがあり、あるときダマスカスに入札書類を届けようとタクシーを頼んだところ、通常のルートでは雪があって峠が通れないので、南回りなら時間はかかるが行けるという。他にオプションが無いので、ドライバーに身を任せて南に下って行った。そちらには行く用もないし、基本的に治安が良くないところなので、行ったこともなかった。運転手に、「先ほどから道のど真ん中に、マンホールのようなものがありそれを丁度またぐように車が走っているが、あれは何か」と聞いたら、あれはイスラエルの対戦車用の地雷だと言う。踏まなきゃ大丈夫だからお客さん安心して下さいとのこと。慣れているから大丈夫だと言われても、慣れの問題では無いと言いたいが、ここまで来たら先に行くしかない。丸一日かけて、入札書類を届けてベイルートに帰ってきた。

  • サラリーマンの原点

突然ですが、ここでクイズです。今の会社で、本社にこんな事をやっていますと言ったら、本社の管理職はなんと言うでしょうか?

  1. 入札書類は無理して出さなくても良い。
  2. 俺にいちいち連絡しなくても良いから、結果だけ知らせてくれ。

こんな問題に正解なんてあるはずがないと思いますが、どうも、どっちもないような気がしてなりません。他に何か良い方法は無いのか?などと無い物ねだりをして、結局、結論は無いのでは。皆さんならどう指示をしますか、考えてみて下さい。

蛇足ですが、あの当時、日本の各社駐在員がおり、それぞれ避難したわけですが、避難民に対する各社のその後の対応がおもしろかったので、本社の人事部や総務部の方々のご参考に供しておきます。

私がいた会社は、ロンドンに避難後、それぞれが別の勤務地に割り振られ、落ち着いてから、人事部経由でベイルートに置いてきた資産のリストを出せと言うので、色々思い出して書いてはみたものの、現地で買った洋食器や家具といってもたかだかしれていて、子供のアルバムなど金に換算できないものの価値の方が多かった記憶があります。

問題はそのリストの扱い方です。ベイルートからバグダッドに移り2年以上、あと大阪に帰って、リスト提出後3年以上経ってから、あのリストに基づき、会社として10%アップで保証するとこにしましたという通知を受けた。たかだか100万円に満たない金額を、3年も経ってから保証しますと言われても、拍子抜けがして、いったい3年間何を検討していたのか、そちらの方に興味があった。

それで、他社の友人に聞いたところ、IHIの避難先はクウェートで、出来るだけ荷物は持ったが、持ちきれず放棄した。その時の本社の対応は、社長命令で、即刻、駐在員に現金で直ちに保証し、さらに新たな生活拠点での資金も支給されたとのこと。エンジニアリング会社やメーカーは大方似たようなシステムで、事件後直ちに処理したようです。

中小商社などもそのように聞いていますが、問題は大手商社がどうしたのか、是非調査してみたいですね。いかに本社の人間が、現場のことには「私は関係ない」という視点でサラリーマンを平然とやっていられるのがサラリーマンの原点であるという私の持論を覆してもらうためにも。

次回は、旧ユーゴスラビアの内戦についてお話しします。