パレスチナ人お手伝いさんの日本食と子育て

ベイルートは昔から中東のパリと言われて風光明媚な時代がありましたが、第4次中東戦争(1973年)のころから、アラブ対イスラエルという構図から、キリスト教徒対イスラムなど複雑な仕組みとなって、市街戦が日常となり、そのころ我が家では子供が出産するので、米国が建てた、AUMBC(American University of Beirut Medical Center)のお世話になり、無事二人の男子を出産しました。今回は、その時にお世話になった病院やパレスチナ人のお手伝いさんの子育てのお話です。

当時ベイルートでは、我々駐在員の家庭でも、お手伝いさんを雇って、奥様方は優雅な生活を楽しんでおられたと記憶しております。

出産のためのドクターは欧米で修行した医者ですので、安心してカウンセリングを聞くことが出来ました。問題は産み月になって、パリとロンドンに長期出張が入ったので、その旨支店長に話をすると、そんな産み月の妊婦を置いて出張に行かれても困るけど、あんたは昔パリに駐在経験があるのだから、一緒にパリに連れてってくれるか?というので、家内も気楽に、遊びに行くつもりで、11月の寒くなる季節に、パリに出張、家内は毎日、市内観光で、優雅に過ごしたが、中々生まれる気配もなかったので、一週間遊んで?!出そうもないからベイルートに帰るということで、一人飛行機で返し、こちらはそのままロンドンとパリの往復で過ごしていました。11月末になって、ベイルートの仕事仲間から、「男子無事出産、母子ともに健全」とだけ簡単に連絡があった。

こちらも出産は病気でないからと気軽に考えていたが、後から店に帰ると、まず支店長から「おまえ大変だったんだぞー、生きるか死ぬかということで、遺書まで書いたと聞いているぞ」とのこと。そんな話聞いてないとは言ったものの、皆さんにお世話になったので、お礼をして回って、聞いてみると、出産時に、引っかかって、結果として開腹手術で出産したとのことで、子供には何の影響もないとのことでした。

病院の施設は充実していて、三度の食事も、一回ごとに、メイドさんが、メニューを持って御用聞きにきて、お昼など家内は毎日ステーキを食べていたそうです。

二人目の時には、とにかくベイルートにいないと怒られるので!出産予定日に家で、家内がシャワーを浴びていると、破水が始まったので、至急「ラジオタクシー」を呼んで、病院に連絡、駆けつけると、玄関で待っていて、サッサと病室に連れて行って、しばらくすると、お生まれになりましたとのこと。

日本に帰国した後、あのときもし日本でタクシーか救急車に来てもらっても、果たしてあんなにスムースに病院で受け入れてもらえたかどうか考えてしまいました。むしろベイルートで良かったと今では思っています。

ベイルートでお世話になったお手伝いさんは、パレスチナ人で、自分にもお嬢さんがいて、うちに仕事に来るときも子供も連れて来ていました。

彼女は嘗て日本人の駐在員に仕えたことがあり、誕生日だというとお赤飯を炊いてくれたり、マーケットで生蛸を買ってきて、粗塩でごしごしこすって洗い、その後茹で蛸にして、刺身で出してくれたり、立派な日本食を出してくれました。

また赤ん坊の世話も立派で、食事の時には、子供専用の椅子に座らせ、しっかり所定の量を食べ終わるまでは、決して椅子から降ろしませんし、終わったら今度はスワンの形をしたおまるに座らせて、うんちが出るまで、辛抱強く見張っています。毎日このような規則正しい生活をしているので、たまに日曜日に家内が食事をさせても、わがままを言って中々言うことを聞きません。

普段は時に、子供を自分の家に連れて行って遊ばせたりしていました。今考えたら、あのときお手伝いさんの家に行ったこともありませんでしたが、よくもまあ、子供を預けて、何の心配もしていなかったのが不思議です?! 勿論子供は喜んでお手伝いさんの子供達と遊んで楽しく帰って来ます。

あるときタクシーに乗ったら、運転手さんがラジオをかけていて、アラブの音楽が鳴っていました。それを聞いたうちの息子が、突然その音楽に合わせて、アラブ風のリズムで踊り出したので、運転手は大喜びで、その息子は「ヤバニ(日本人)か?」と聞かれたので、そうだ日本人だと答えたら、さらに喜んでくれていました。やはり普段お手伝いさんの家で、アラブのラジオを聞いたりして、自然にアラブのリズムが身につくのでしょう。

その後、ベイルートの戦乱が激しくなり、ロンドンでの避難民生活の後、大阪に行きましたが、アラブのリズムも、大阪弁も、小さい頃に身に付けたはずですが、やはり今はすっかり忘れたようです。

ベイルートでの戦乱が長期にわたり、その後あのお手伝いさんもどうしているか消息は不明ですが、アジアでも、アラブでも、戦争や内紛の犠牲者は結局、罪のない民間人で、何時になったらこうした争いが収まるのか、おろかなのは誰なのか?どうもあまり希望が持てないような気分です。

ところで、最初に書きましたAUB(American University of Beirut)というのは、1866年にアメリカの宣教師団によって最初はSyrian Protestant Collegeとして建てられた無宗派の大学です。感心するのは1866年と言えば慶応2年です。その頃に既にアメリカの宣教師団が私学として、ベイルートにこのような学校を建設したこと、そのものが、私にとっては「昔の人もアメリカもご立派」ということです。

その付属の病院でお世話になったわけですが、最近は民主主義の押し売りのようなこともやっているようですが、あの頃には、もう少し動機が純粋だったのではと思います。そうした歴史が、今に脈々と繋がって、人材を育成しているということを我々現代の人は心して学ぶべきかと思っています。

パレスチナ人のお手伝いさんのご無事を心から祈っております。