イラク北方部モスルの田舎の村長さんの依頼

チグリス川にほど近い村で、ダムの調査をやっていたとき、道に迷って近くにいた農村のおじさん(実は後で村長さんであることが判明)が道案内をしてくれたときの話です。冬に近い頃で、イラクといえどもこの地方では結構寒い日のこと、彼はとても親切で羊の皮を縫い合わせたえらく重たいマントを私に掛けてくれた。それがとても暖かく感謝をしつつ彼の案内で一通りダムの調査を終えて帰ろうとすると、まずは家に寄っていけと言うので、とにかく村長さんの家にお邪魔をした。少し遅めの昼飯時間だったのですが、彼は早速料理を家の者に作らせ、近くの小学校の英語の出来る先生も呼んで、宴会となった。

突然訪問となった日本人グループを彼は何の理由もなく招待してくれて、羊の頭のついたままの立派な料理が並べられた。いきなり演説を始め、冒頭、遠い日本からよくぞ来てくれた。村長以下ここの村人達はあなた方を大歓迎しますと述べた後、この料理は、私の妻と、ここにいる私の息子の母親が作ったので、遠慮無く食べてほしいと言われた。

すかさず私は、そばで通訳をしていた英語の先生に、「私の妻と、息子の母親とはどう違うのか?」と聞いたら、先生は笑って、「村長の言われたとおり、同じ人ではありません」ということだった。それ以来、この言葉が流行り言葉になり、「おまえ、この前一緒に歩いていた女性はおまえの奥さん、それとも息子の母親?」と言った会話がよく交わされた。

その後先生に、イラクでの一夫多妻について訪ねると、イラクでは都会に住む官吏や勤め人などはほとんどが一夫一婦で、金持ちの商人とか、田舎の名士などがまだ一夫多妻であるケースがあるが、段々と減っているという。法的には4人までが奥さんとして正式に登録することが認められており、役所に出す結婚届に奥さんの名前を書くところが4カ所あるという。

ちなみに彼の奥さんは2人だけだそうで、3人いたらなんと説明するのだろうか興味半分で、その3人目に息子がいたら、こっちの息子の母親とか、説明するのかと聞いたら、大変面白い答えが返ってきました。すなわち一般論ですが、アラブは男社会で、息子として紹介されたのは長男で、父親としてはこの息子(長男)が「跡継ぎ」であり、扱いとしては日本の戦国時代と似ていて、別格扱いで、他に男の子がいても、全く扱いが異なるので、普通は他の男の子は紹介しないか、その他大勢で済ますとのことでした。他の地域の湾岸などでも、商家で接待に与かったときも、長男だけが丁重に扱われ、他の次男坊以下は「その他大勢」という扱いでしたので、多分そうした文化が今でも重厚に残っているのだと思います。

食事も充分ご馳走になり(アラブではどんなにおいしくても、全部男どもが食べてはいけません。必ず、女性や、次男坊以下の人たちのために残しおくのが礼儀です)、一言お礼を述べたところ、村長さんがやおら立ち上がって、最後に一つだけ、皆さんにお願いがあると言う。曰くこの村は皆さんが経験されたように、冬場になると道はぬかるみ、国道まで出るのには一苦労で、ほとんど買い物にも出かけられず非常に不便な生活をしている。私村長としては、村人が冬場でも、町に出て買い物が出来るようにしてやりたい。ついてはダムを造るときに、是非この我が村の近くに道路を通してほしい、という訴えでした。

たった一本の舗装道路を作ってもらうために、見ず知らずの遠い日本から来た人を客人としてもてなし、普段は質素な食事をしているであろう所を、客人に大判振る舞いをして、食事を提供し、道路を造ってくれてと嘆願するこのけなげな村長さんにほんとに感謝、感激で、忘れられない思い出となっています。今あの地域がどうなっているのか判りませんが、あの地域はクルド地域に近く、古代キリスト教を信奉する部落も点在しており、その昔アレクサンダー大王が、ペルシャ遠征したときの通り道であったようです。

その時の影響が今でも残っていて、村で遊んでいる子供達の中に、金髪青眼の女の子がいたので、あれはどういう事ですかと運転手に聞いたら、アレクサンダー大王の兵士達の遺伝子があのように時々出てくるのですが、村では別に不思議でもなく、子供達も差別無く育てられているという話でした。本当かどうか私には判りませんが、金髪青眼の女の子が、他の兄弟と遊んでいたのは事実です。遺伝子というものが、可なり時間が経った代にでも出るものなのか分かりませんが、ホモジニアスな日本社会でも段々とその様な国際化も進んでくる事でしょう。

ちなみにこの地域の「モスル」という所では、明治時代には、「モスリン」という平織物が盛んで、明治生まれの祖母などはよく、モスリンとかカナキン(これもイラクの土地の名前)という言葉を口にしていましたが、繊維の専門家ならご存じでしょうが、最近の若い方はほとんどこの織物のことはご存じないようです。こうした産業と人々の生活とは密着しているわけで、日本でも娘が生まれると、桐の木を植えて、嫁に行くときに、桐箪笥を作る風習がありましたが、この地域では、桑の木を植えて、嫁に行くときには、その木で育てた、お蚕で絹織物を作るといった風習がありました。産業の歴史と時代の風習とは表裏一体ですので、そうした風土が人を育て、土地を守るわけで、大事にしたいですね。

余談ですが、戦前まで着物の定番模様の「矢絣」の模様は、矢羽根がデザインされています。これは嫁に行った娘が、行ったきりで戻らないようにとの願いが込められているという話を聞きました。近頃は簡単に戻ってきてしまうので、「ブーメラン」模様でも作ったら流行るかも知れません!!