自然環境と人殺し

最近若者の殺人事件が毎週のように報道されている。更には若夫婦が自分の乳児、幼児を虐待したり殺したりする事件が後を絶たない。TVでも教育者や専門家と称する人たちが、色々解説しているが、所詮後から解説で、私の年代では全く理解が出来ない。

それと気になるのは、本人たち同士の情報についてはかなり詳細に人間関係等を報道しているが、まだ未成年なのに、親の存在が全く報道されていない。TVでは直接関係ない親などに関しては、色々報道しにくく、裏では話が出ているのだろうが、あんな表面的な報道で事の真相を深掘りしようとしても所詮は興味本位の報道と取られても仕方がないだろう。

近くの寺の住職で、イスラムやキリスト教などと異宗教間での交流を通じて、殺し合いのない世界、理解し合える世界の構築活動をされている方とこのような件で話をしたが、彼も私よりは一世代若い人ですが、それでもやはり、理解に苦しむという。彼の経験では、小学校低学年の生徒たちに、人が死んだら生き返ることは出来るのか?という質問をしたら、驚くことに、一割以上の子供が、本気で生き返ることが出来ると答えたという。

色々理由を聞いても確たる答えは返ってこなかったが、どうもTVゲームなどのリセット機能が現実の世界でも当然存在するのだろうということが、普段バーチャルな世界と現実の世界の堺が曖昧な生活をしている彼らにとっては、頭の中の世界には厳然としてそうした世界が存在しているとしか思えないというのが、その住職の感想であった。

加えて彼が言ったことは、更に彼より一世代下の親たちでも(50歳前後)、かなり違った意見が出るという。それは何が違うのか聞いてみると、要するに彼らが若い20歳前後では(今から30年前後前)、景気も悪くなく、今ほど貧富の格差もひどくない時代に、都会生活、マンション生活など、他人との接触なしに、とりあえず自己中心的に生きても生きられるという都会生活形態が社会的、文化的背景にあるのでないか? 問題はそうした親に育てられた子供たちに親たちの考え方が強く反映され、他人に対しては無関心、無反応、考えは自己中心的、といった背景を背負った人が以前よりは増加してしまったとしか考えられない、ということでした。

勿論都会生活をしても、社会生活を理解し、立派に生きている若者も大勢いるのは事実ですが、公共の場での人々の行動を見ていると、やはり時代背景というのは厳然として存在するので、私たちから見れば異様な風景が普通に展開しているのが現代であるというのが自分を納得させる理由のようです。

何が異様な風景?と聞かれれば、電車のホームで待っている人ほとんどがスマホを手にして、周りなど気にせず、電車のドアが開いても、スマホを見ながら乗車しているのを最近体験して、ぞっとした思いでした。

養老孟司さんが随筆で、何故人を殺してはいけないか?という話で、彼は昆虫にも造詣が深く、蟻やトンボでさえあんな精密機械のような昆虫をもし殺してしまって、ちゃんと作り直せと言ったって作り直せるはずがない。ましてや人間なんて、複雑すぎて、作れるはずがないといった意味のことを書いておられたと記憶しています。そして、そうした命とか、生命体を無意識に理解するためには、都会人は一度で良いから、田舎生活をさせた方が良いということも書かれていました。

TVでビートたけしの番組で、同じ議論、何故人を殺してはいけないのかという話をしていましたが、主権国家同士の戦争では、人を殺せと言われて、人殺しをする、そこから説き起こして、最後は地球が全滅するからという理屈で説明をしていましたが、私は、「人殺しは理屈ではない」と考えています。場合によっては、やむを得ず、憎みに憎んで「人殺しをする」こともあろうかと思います。

しかしそれを思い留まるのは、自分が乳児幼児から育ってきた生活環境、自然の動植物に対する感情や、親や自分の近辺の人たちとの交流などで育まれてきたものが、他人の痛みを知ったり、他人が何を考えているのか、友人が何を望んでるのかといった事を、理屈ではなく自然に身につけるということが、一番重要な教育なのでは無いかと思います。

最後にエピソードを一つ。冬には蟻がいなくなって、最近暖かくなったので、蟻さんが出てきたので、孫娘と、蟻さんを探しに行ったら、蟻さんは何しているの?と聞くので、暖かくなったので「ご飯を探しているんだよ」と教えた。

花壇にあるチューリップにつぼみがついているのを二三日前に、もうじき綺麗なチューリップが咲くよと教えておいたので、それを見に行った。見事に赤いチューリップが咲いているのを見て、「もう咲いたね!」と言ったあとに、「チューリップさんはどんなご飯を食べているの?」と聞くので、「チューリップさんのご飯は、お水だよ!」と答えると、「あたしもお水を飲んでるよ!」というので、「だからかわいいんだ!」と答えると、「不思議だねー?」と答えた。「不思議」という言葉は教えた記憶はない。乳児恐るべし、自然の環境はやはり小さい頃に体験した方がよろしいようです。