戦争と平和(6)(終戦)

とても暑い夏の日、ラジオからニュースが流れていました。「敵は広島に新型の爆弾を投下した模様。政府は物理学者などを現地に派遣調査を開始した」という短いニュースを今でも鮮明に覚えています。それから長崎にも原爆が投下された。そして8月15日、その日もかんかん照りの雲一つ無い真夏日でした。

小学校4年の少年は戦闘帽をかぶり、外で皆が聞こえるように、廊下に出したラジオから聞こえてくる放送を、直立不動で聞いていました。母親たちも一緒でした。

放送が終わって、母親たちが「負けたみたいだね」と言ったが、泣き出したり、悲しい顔はそこにはなく、むしろほっとした、やけに明るい表情が印象的でした。

父親たちからも、何となく日本は負けそうだという話は、終戦の年の始め頃から聞かされていたので、子供心に変に納得していました。

寺に集団で寄宿していた兵隊さんが私に声を掛けてきて、「兄ちゃん、戦車に乗せてあげるから、学校まで遊びに行こう!」という思いがけない話があり、何も考えずに、只戦車に乗れるという事だけで、喜んで乗せてもらいました。その小隊のトップは若い将校でしたが、にこにこ笑いながら、送り出してくれました。

後から考えてみれば、国内予備軍のような小隊が、「本土決戦」を覚悟でいたところが終戦ということで、我々以上に、安堵したのかも知れません。これが小学4年生の終戦日の一日でした。

それからまだ田舎暮らしが続き、昭和22(1947)年春、6年生に上がる時に東京・赤坂に引っ越しをすることになります。それまでに、マッカーサーが厚木の飛行場に降り立ち、初めは横浜に、後にGHQの本部を日比谷の第一生命のビルに移し、「戦後」が始まります。

ある事件が田舎の国道で発生しました。丁度今の沖縄のような光景です。進駐軍の深緑色に塗った大型のトラックが鎌倉街道を高速で突っ走り、普段から親に気をつけろとやかましく言われていたのですが、近くに住んでいた縁故疎開の上級生が、そのトラックにはねられたのです。

勿論トラックはそのまま走り去り、足を轢かれた少年は、痛い痛いと泣き叫んでいました。当時は車もなく、手引きのリヤカーで、5kmほど離れた町田の病院まで、大人二人で運んで行きました。後から聞きましたが、病院に到着する前に息を引き取ったそうです。こんな風景が東京にもあったのです。

  • 食糧問題

その後、吉田茂首相がマッカーサーと交渉し、小麦やその他の食料品を援助してもらい、この村にもアメリカからの援助物資が配給になりました。缶詰類が多く、すべて濃い緑色の軍隊色で、コーンビーフなどは今まで口にしたことなど無く、こんなうまいものが世の中にあったとかと思うほどでした。今食べても結構おいしいです。

またウインナーソーセージなどもありましたが、近所のお百姓さんはあまり見たこともないので、どうやって調理をして良いのか、都会から来た家の母親などに聞きに来ていました。

こうした物資は、アメリカ政府の「マーシャルプラン」ですべてまかなわれたと理解していましたが、最近になって、学校でODAのテーマで授業をやるために少し資料を調べてみたらとんでもないことが分かりました。

実は援助物資の中に「ララ物資」と称される援助品がありました。食料その他学用品もあったようですが、私どもはもっぱら食品でした。「ララ物資」という言葉だけは当時から覚えていたので、てっきり米国政府のどこかの機関の名前だろうと思い込んでいました。これはとんでもない間違いでした。

盛岡生まれの日本人で、浅野七之助(明治27年~平成5年)という方がおられ、原敬の書生もやっていた人です。大正6(1917)年に渡米、色々な職業を経験し、底辺社会や日系人の実情を知り、その後新聞記者となり、日系人の権利獲得のために尽力した人です。

戦後の日本の惨状を知り、日系人に呼びかけて、食料、衣料、医薬品などを集め、日本戦災救済運動をし、この活動が後に「ララ物資」として知られる、「Licensed Agency for Relief in Asia(LARA)」という組織で、戦後の食糧難の時代に私たちが助けられた実態だったわけです。

その後、昭和62年5月16日にサンフランシスコ市長より、日系人への貢献、ララ物資の支援、日米親善への貢献などの功績で表彰され、その日5月16日が「浅野七之助デー」に制定されているそうです。

世の中には人様のためにお役に立つことをする人がいるものだと感激して、その話を、たまたま金持ち国のカタール人で、アメリカで勉強したエンジニアが、ゴミ処理の話で日本に来たときに、私たちは戦後こんな人に助けられて、食い繋いで来たという話をしました。

彼は非常に興味を持って、その「ララ」という組織についてもう少し知りたいので、情報を教えてくれと言われたので、あんたは若いのに何でその様なことに興味を持つのかと、メールのやりとりで聞いたところ、日本あるいは日本人がなぜ戦争に負けたのにこれだけの繁栄をしたのか、日本人についてこのような話は非常に興味があるし、カタールはちっぽけな国だが、こうした日本人がなぜ育つのか、自分はアメリカで高等教育を受けたが、教育自体よりも、こうした人間が育つ環境とか文化に非常に興味があるという返事が帰って来ました。とんだ国際交流でしたが、このような話が、現代のしかも金に困らないカタールの若者にもインパクトを与えられるという事実を知って、感激しています。