神との対話

いきなりこんな話をはじめると何かあったのですか?と聞かれそうですが、まあ聞いて下さい。

歌人で岡野弘彦という方がおられます。神主の家に生まれ、現在は、日本藝術院会員、文化功労者。國學院大學名誉教授で皇室にも関わり、昭和天皇の歌の指南役なども務められた方です。

そうした名誉な話ではなく、彼が大学生時代に終戦となり、ある神社でうずくまって、長いこと神と接していたときに、MP(進駐軍の軍警察)に「そんなところでじっとしていないで、早く立ち去れ」と言われ、放浪しながら、漁村の神社でうずくまっていたときに、漁村の秋祭りをやっていた漁師達が、神様の祭りだからと、見ず知らずの自分を家に呼んで、たらふく飯を食えと言われ感激した思い出があるという話をラジオで話されていました。

彼によれば、神主の息子に生まれたこともあり、少しは神との接し方は心得ているつもりで、そもそも神がおりてくる場所というのは、神聖な場所として、いつもきれいになっていなければならず、彼の生まれた三重県も熊野古道のあるところでもあり、彼自身も伊豆に住まっていたこともあるそうで、そうした土地には神がやどったり、人間自身の精神を鍛えるためにふさわしい土地柄があるようです。こうした神々が日本人の心を作ってきたわけで、古事記や万葉集の歌にも古人の心情がそこはかとなく歌われているものが多くあるという話でした。

そうした心を失わないためにも日本の心のふるさとである神々との対話も大切だということなのでしょう。要は神との対話というのは、生やさしいものではなく、私自身は初詣や、子供や孫達の神社祭事などにしか神社を訪れることもあまりない人間ですが、確かに以前は、神社でじっと跪いて、長時間神との対話を真剣におこなっていた人たちがいた風景を思い出します。

私の友人で、定年後、専門の大学で仏教の勉強を1年間おこない、教授連中に難しい質問をして困らせたようですが、その後更に神様の勉強をしたいということで、神道の大学で更に1年勉強をした方がいます。

それで、歌人の岡野氏の経験談を彼に伝えようとしたその日の朝、彼の方から、早朝の話をしてくれました。彼は毎朝、暗いうちに、近くの神社にお参りにいき、お賽銭を毎日用意して、神様に捧げているというので、何かお願い事でもしてくれているのか、聞いてみました。そうではないと言うのです。神様と対話をするという事は、深閑とした、神社の木立の中で、ひたすらじっと耳を澄ませていると、神の声が聞こえてくるのだそうです。

上述の神主の家に生まれた岡野氏と同じようなことを言われるのですが、そのような家系に生まれたわけでもなく、普通のサラリーマン生活をして来た方で、都会の喧噪の中で生きていると、シーンと静まりかえった時空を得るのは難しく、早朝、真っ暗な中で、じっと耳を澄ませて、しかもこの真冬の寒いなかで、神の声を聞くという事は、神経を集中し、頭の中を真っ白にすることが出来る、それで色々な事の真実が神の声として聞こえて来るという事のようでした。

私など俗物は神社に行けば、小銭の賽銭を投げ入れて、欲張ったお願いをして帰ってくる程度の神との付き合いですが、確かに、綺麗に掃除された境内の中で、自分の心を無にして、集中するには、神との対話との境地までは行かないまでも、良い方法なのかと考えさせられました。

話はこれで終わりではありません。その日は月曜で、アメリカのある会社の方とホテルで話をする機会があり、土曜に着いたので、日曜は一日一人で東京を散歩すると言っていたので、何処に行ったのか聞いたら、皇居と明治神宮だと言うので、なぜそこを選んだのか聞いたら、日本の文化には大いに興味があり、特に日本の神話などにも興味があるとのこと。

どうもアメリカ生まれのアメリカ人にしては面白い事を言うと思い、出自を聞いてみたら、奥さんはロシア人で自分もコーカサス地方の出身だという。それで、彼の明治神宮の印象は、あの町中で鬱蒼とした森と、シンプルな構成には何かを感じると言っていました。それだけの話ですが、外国人でも、静かな場所と、綺麗に保全された場所は人が生きるために大切な場所であろうということを感じました。

この冬の真っ最中、明治神宮には至成館という武道場があり、そこで小学生などが、早朝冷たい床板の上で、裸足で剣道などの早朝訓練をしています。そこの館長さん曰く、子供達は、小さい頃に精神を鍛えて、人間の芯を作っておかなければ、これから幾ら立派な学校で高級な勉強をしても、役に立たないので、この様な訓練は非常に重要ですと言っておられました。

全く同感です。私ども戦前生まれの人間は、好むと好まざるとに関わらず、寒さ、飢え、貧困などに自動的に晒されてきましたが、現代では幸いにして、そのような経験は、自動的には得られない時代になっています。矢張り何処かでそのような体験は必要なのでしょう。

それでは仏様の方はどうなんだという事になりますが、池上彰氏が東京工大で行っている講義の中で、生物学者の本川達雄氏との面白い対話があります。

本川先生によれば、「ニュートン教では、科学はいつも進歩し、右肩上がりに事態は進行していきます。元には戻りません。資源が無限にあればこれでよいかもしれませんが、有限な世界では、このやり方では、いつか破滅するしかありません。地球が保ちませんから。持続可能性を言うなら、生物学や神道を、再評価する必要があります」(出典:日経ビジネスオンライン)という話です。

また、宗教との付き合い方について、「結婚式を神道で挙げ、葬式は仏教で執り行う、というのが、よくあるパターンですよね。キリスト教徒に言わせれば、なんと節操のない、とあきれられるでしょうが、これには意味があると私は思っています。結婚式とは、子供を産む、つまりこの世の永遠への門出ですから、神道でやる。葬式とはあの世の永遠への門出ですから、仏教でやる。じつにつじつまがあっています。こうして、この世の永遠とあの世の永遠とを保証し、そうやって、私たちは安心して暮らしてきました。これは、ものすごく賢い宗教との付き合い方ではないでしょうか」()というのが先生のご意見で、生き物とは、生命とは何かを考える、ということは、例外なく全ての人に必要ですから、だから生物学は究極の教養科目であるともいえるので、高校でも、大学入試でも、物理・化学だけでなく、生物学をもっと積極的にこれからは取り入れる必要があるという事です。

たまたま、理化学研究所の若い研究員の小保方晴子リーダーが、生まれたばかりの若いマウスを使って、新型万能細胞「STAP細胞」を発見したそうで、祖母からもらった割烹着を着て研究されている姿がTVで報道されていました。

私が興味を持ったのは、この研究を英国の「Nature」誌に投稿したところ、当初は過去のこの分野の研究者の研究成果を冒瀆するものだとまで言われたことがあるようです。今回は2014年1月30日付けで「Nature」から発表されたようです。

どんな立派な研究も、初めは認めたくない、あるいはそんなことがあるはずがない、という既成概念が、新しいものを拒絶する傾向にあるようです。先の生物学の元川先生ではありませんが、生命と神の領域にだんだんと迫ってくると、ますます、科学と宗教の領域もよく考えていかなければならない時代に入ったという感じがしています。