語り伝え(伝承)の大切さ

2011年3月11日に発生した東日本大震災以来、東京の直下型地震や、東南海大地震等々、近々起こりうる大災害についてその予報や対策など色々議論され、TV等でも報道されていますが、結局は一人一人の命の問題です。歴史的に何千年、何億年単位では勿論、大災害が起こっているのは事実ですし、私たちが現在生きている、たった100年前後の間でも、災害が起こったそれぞれの地域で、その後の復興や、その時に生き延びた人々の生の声が必ずしも生かされていないような気もします。それぞれの地域で身近に起こった災害で生き延びた人たちの現場の話をもとに、今一度来たるべき大災害にどう覚悟をして、どう命を守るのかを整理して見るのも良い機会かと思います。 続きを読む

第一次世界大戦から100年(誰のために戦争をするのか?)

今年で第一次世界大戦が始まって100年目。足かけ5年の戦いでしたが、軍事関係者の死者が900万人、非戦闘員の死者が1,000万人と言われています。主戦場は欧州全土ですが、当時の武器のレベルからしても、如何に大量の死者が出たか、この数字だけでもなぜそんなに戦わなければならなかったのか。「サラエボ事件」の歴史的な意味合いについて、意見を交わす国際会議が、今年、事件の発端となった、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで開催されるという話です。

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戦争と平和(7)(戦後)

小学校6年になる春に、赤坂に引っ越し、桧町小学校に入学しました。現在の赤坂小学校ですが、戦前戦中は乃木小学校です。すぐそばに乃木邸があります。

戦後2年しか経っていないので、まだまだ元高級住宅街は焼け野原のままでした。そこで私たちは、焼けただれた金網をバックネットにして野球をやり、他人の土地ですが、勝手に耕して、カボチャやサツマイモなどの食料を作っていました。 続きを読む

戦争と平和(6)(終戦)

とても暑い夏の日、ラジオからニュースが流れていました。「敵は広島に新型の爆弾を投下した模様。政府は物理学者などを現地に派遣調査を開始した」という短いニュースを今でも鮮明に覚えています。それから長崎にも原爆が投下された。そして8月15日、その日もかんかん照りの雲一つ無い真夏日でした。 続きを読む

戦争と平和(5)(国民学校生活)

鶴川村では、学校は疎開していた寺から3km 近くあり、当時集団登校でしたが、足腰はおかげで大変丈夫になりました。特に冬の雪の降った日は大変で、履物はわら草履なので、すぐにぬれるので、腰にわらじを差して、裸足で学校まで駆け足で行きます(ゆっくり歩くと足が冷たいので)。学校に着く前に井戸があるので、その暖かい水で足を洗い、草履を履いて教室に入ります。教室には、前の方に大きな四角い火鉢があって、炭火が焚かれています。あまり暖かかった記憶はありません。 続きを読む

戦争と平和(4)(都会っ子の暮らし)

今では田舎ではなくなっていますが、当時鶴川は充分立派な田舎で、都会っ子が美しい里山生活が出来たことは、自分にとっては貴重な経験だったと思っています。しかも、戦時中ということで、色々な事件や、日常生活の中で子供仲間のこと、学校生活、日々の里山生活、野山での遊び、村祭り、だんべい言葉等を思い出せる限り書いてみます。 続きを読む

戦争と平和(3)(学童疎開の実態・小学生の自己責任)

私どもは、昭和16(1941)年12月に大東亜戦争が始まるとすぐに、親が早々と縁故疎開することを決めたので、私が「千駄ヶ谷第一国民学校」に入学し、一年間いた東京の学校に別れを告げることになりました。 続きを読む

戦争と平和(2)(嵐の前の静けさと耐乏生活)

世界恐慌の影響がもろに出ている昭和13(1938)年に、日本は国家総動員法が発令され、経済統制(米の配給)、公定価格(俗に丸公)、言論統制、労働問題など、国民生活に直結する基本問題を規制したのがこの法律です。

私が記憶しているのは、昭和14年に、東京・千駄ヶ谷の自宅に、米屋が「配給でーす」と言って、台所にドスンと米袋を配達してきたのを覚えています。生まれて間もない、この頃からが、食い物との戦いの始まりだったわけです。

それから2年して第二次大戦が始まるのですが、それまでは特に食物が不足したとか、いつもひもじい思いをしたということもなく、「三丁目の夕日」の世界が広がっていたということです。その生活環境をご理解頂くために、千駄ヶ谷の町の様子を描いてみます。 続きを読む

戦争と平和(1)

毎年8月になると、終戦記念日で、第二次大戦時中の悲惨な話や苦労話がTVやラジオで放送されます。私自身も戦争経験者ですし、東京に住んでいたので、縁故疎開をしたり、隣近所の幼なじみが戦争のために、孤児(みなしご)になったり、一つ一つが鮮明な記憶として残っているので、何気ない話ですが、当時としては淡々と受け入れ、今となっては貴重な記憶として、細かい陰影までが残っています。

こうしたことが二度とないようにと口癖のようにTVのコメンテーターは言いますが、私としては、どうも人間というものは、懲りない性分で、時が経てばいずれまた、似たような事を始める動物だとあきらめているところがどこかにあります。そうしたことが出来れば無いように、反省と自戒の念をこめて、当時の庶民がどのような生活をしていたのか、具体的な話をしてみます。 続きを読む