戦争と平和(6)(終戦)

とても暑い夏の日、ラジオからニュースが流れていました。「敵は広島に新型の爆弾を投下した模様。政府は物理学者などを現地に派遣調査を開始した」という短いニュースを今でも鮮明に覚えています。それから長崎にも原爆が投下された。そして8月15日、その日もかんかん照りの雲一つ無い真夏日でした。 続きを読む

戦争と平和(5)(国民学校生活)

鶴川村では、学校は疎開していた寺から3km 近くあり、当時集団登校でしたが、足腰はおかげで大変丈夫になりました。特に冬の雪の降った日は大変で、履物はわら草履なので、すぐにぬれるので、腰にわらじを差して、裸足で学校まで駆け足で行きます(ゆっくり歩くと足が冷たいので)。学校に着く前に井戸があるので、その暖かい水で足を洗い、草履を履いて教室に入ります。教室には、前の方に大きな四角い火鉢があって、炭火が焚かれています。あまり暖かかった記憶はありません。 続きを読む

戦争と平和(4)(都会っ子の暮らし)

今では田舎ではなくなっていますが、当時鶴川は充分立派な田舎で、都会っ子が美しい里山生活が出来たことは、自分にとっては貴重な経験だったと思っています。しかも、戦時中ということで、色々な事件や、日常生活の中で子供仲間のこと、学校生活、日々の里山生活、野山での遊び、村祭り、だんべい言葉等を思い出せる限り書いてみます。 続きを読む

戦争と平和(3)(学童疎開の実態・小学生の自己責任)

私どもは、昭和16(1941)年12月に大東亜戦争が始まるとすぐに、親が早々と縁故疎開することを決めたので、私が「千駄ヶ谷第一国民学校」に入学し、一年間いた東京の学校に別れを告げることになりました。 続きを読む

戦争と平和(2)(嵐の前の静けさと耐乏生活)

世界恐慌の影響がもろに出ている昭和13(1938)年に、日本は国家総動員法が発令され、経済統制(米の配給)、公定価格(俗に丸公)、言論統制、労働問題など、国民生活に直結する基本問題を規制したのがこの法律です。

私が記憶しているのは、昭和14年に、東京・千駄ヶ谷の自宅に、米屋が「配給でーす」と言って、台所にドスンと米袋を配達してきたのを覚えています。生まれて間もない、この頃からが、食い物との戦いの始まりだったわけです。

それから2年して第二次大戦が始まるのですが、それまでは特に食物が不足したとか、いつもひもじい思いをしたということもなく、「三丁目の夕日」の世界が広がっていたということです。その生活環境をご理解頂くために、千駄ヶ谷の町の様子を描いてみます。 続きを読む

ヒッタイト族お手伝いさんの水利用と口コミ

ベイルートの戦乱のため、家族はしばらくロンドンに避難民として滞在していたが、それぞれの家族はその後、中東の諸国に散らばって勤務することになった。

バグダッドは当時、かの有名なサダム・フセインのおじさんにあたる、ハッサン・アル・バクルという人が大統領を務め、国民もこれから良い国になると感じて、シーア派もスンニ派も仲良く暮らし、事務所のボーイも、暇があれば英語の本を片手に勉強をしていた。 続きを読む

パレスチナ人お手伝いさんの日本食と子育て

ベイルートは昔から中東のパリと言われて風光明媚な時代がありましたが、第4次中東戦争(1973年)のころから、アラブ対イスラエルという構図から、キリスト教徒対イスラムなど複雑な仕組みとなって、市街戦が日常となり、そのころ我が家では子供が出産するので、米国が建てた、AUMBC(American University of Beirut Medical Center)のお世話になり、無事二人の男子を出産しました。今回は、その時にお世話になった病院やパレスチナ人のお手伝いさんの子育てのお話です。 続きを読む

世界のお手伝いさん事情(人を使う、人に使われる)

サラリーマンなら人に使われ、少し経ったら、人を使う立場も両方経験するわけですが、これが個人の立場で、使われたり、使ったりする場合には可なり事情が異なります。

戦前では、東京でもちょっとした家なら「ねえやさん」と当時呼称していたお手伝いさんがいました。また個人商店などでは、番頭さんがいて、「たかどん」とか「何々どん」というような呼び方をしていて、年期が明けると、のれん分けをしてもらったりして、独立するというシステムがありました。 続きを読む

イラク北方部モスルの田舎の村長さんの依頼

チグリス川にほど近い村で、ダムの調査をやっていたとき、道に迷って近くにいた農村のおじさん(実は後で村長さんであることが判明)が道案内をしてくれたときの話です。冬に近い頃で、イラクといえどもこの地方では結構寒い日のこと、彼はとても親切で羊の皮を縫い合わせたえらく重たいマントを私に掛けてくれた。それがとても暖かく感謝をしつつ彼の案内で一通りダムの調査を終えて帰ろうとすると、まずは家に寄っていけと言うので、とにかく村長さんの家にお邪魔をした。少し遅めの昼飯時間だったのですが、彼は早速料理を家の者に作らせ、近くの小学校の英語の出来る先生も呼んで、宴会となった。 続きを読む

アフリカの超近代国家

私が中近東地域勤務をしていた、かれこれ40年以上前に、仕事仲間と、アフリカのソマリアにハルゲイシャ(春芸者?!)という街があるので是非一度訪問してみたいと思っていました。繊維関係の方は、そちら方面に、たまに出張して、プリント柄の反物を売り歩いていましたが、最近は商売どころではなく、海賊の巣で、アラビア湾から航行して来る船が乗っ取られたりして、自衛隊も船舶サポートのために港湾都市ジブチを基地に、活動していますが、現時点で国家としての体をなしていないといった程度の興味しかもっていませんでした。 続きを読む